ライト兄弟へのこだわりが続いている。旧臘12月17日、人類初の動力飛行について、英国の航空史家、チャールス・H.ギブス・スミスの『航空史通覧』(英国王立出版局、ロンドン、1960年刊)を本頁にご紹介した。その後いろいろ考えていると、手もとにあるだけでも兄弟について書いた本を何冊か思い出した。その中からもうひとつ、米国ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館から20年以上前に出た「The
National Air and Space Museum」(by
C.D.B.Bryan、1979年刊)を取り上げたいと思う。膨大な写真を含む500頁余りの分厚い大きな本だが、その中でライト兄弟はどのように扱われているだろうか。
ライト兄弟がグライダーの実験を経てつくった動力飛行機「フライヤー」は左右二つのプロペラを持っていた。相互に回転の向きが逆である。そのことによって、プロペラの回転トルクがうち消されるとライト兄弟は考えた。そのうえプロペラを二つにすることで、送り出す空気の量が多くなる。それだけ推力が増すという理屈であった。
構造は以前のグライダー同様、複葉で、脚はスキッド式だったが、全体に大きくなり、主翼スパンは40フィート4インチまで伸び、翼面積は510平方フィートであった。前方水平に取りつけられた昇降舵は再設計され、上下2枚の複葉になった。後方の垂直に立った方向舵は、操縦者の腰をのせる台座からケーブルが伸びて操作できるようになっていた。
ライト兄弟は飛行機を発進させるために、おもりや地上動力はいっさい使わなかった。その代わり、スキッドを長さ6フィートの厚い板の上にのせ、板の下に木材を取りつけ、木材の前後に自転車の車輪に使うハブを改造した小さな車を取りつけた。二つのハブ輪にはボールベアリングとフランジ(縁)がついていて、長さ60フィートの滑走線路から滑り落ちないようになっていた。線路の表面は薄い金属板で覆ってあった。
12月14日、月曜日、風がおさまりすぎて、水平の滑走では発進できないと思われた。ライト兄弟はフライヤーを4分の1マイルほど離れた小高い丘の斜面までもってゆかねばならなかった。
兄弟は自分たちの人類初の飛行を見てもらおうと、近所の人を呼び集めた。そしてコインを投げて、どちらが先に飛ぶかを決めた。勝ったのは兄のウィルバーである。フライヤーのエンジンがかかり、暖気運転が始まった。ウィルバーは機体の上によじ登り、中央の台座の上に腰をのせて腹ばいになった。台座からはケーブルが出ていて、方向舵と翼のねじりをコントロールするようになっていた。
弟のオービルは主翼先端を支えるような位置に立って、機が速度を上げて丘を下って行く間、機体左右のバランスを取るつもりだった。ウィルバーがオービルの方へ顔を向け、うなずいて飛行準備のできたことを知らせた。
機体を縛っていたワイヤが解かれた。ライト・フライヤーは猛スピードでレールの上を駆け下り、オービルはそれについてゆくことができなかった。
その晩、ウィルバーは家族に宛てて、次のような手紙を書いている。
今日、初めて飛行を試み、部分的に成功しました。風は毎時5マイルほどでした。したがって60フィート程度の短い滑走レールでは十分な速度が得られないだろうと思いました。そこで、ぼくらはフライヤーを丘の上に持ち上げ、そこから走らせることにしました。コイン勝負には僕が勝って、最初に飛ぶことになりました。
風はやや横から吹いており、滑走レールも丘の斜面に対して斜めになっていました。しかし本当の失敗の原因は、機がレールを離れた瞬間、ぼくが強く機体を引き起こしたからです。そのため機は速度を失い、修正する間もなく、高度が下がりました。最後の瞬間、速度が回復しましたが、遅すぎました。風のためにやや横へ流されたような格好で地面にぶつかりました。
前方の昇降舵の支持棒が何本か折れました。けれども1〜2日で直せるでしょう。ぼく自身は怪我もなく、無事でした。それに機体の機能も全く満足できる状態でした。信頼性もあるように見えました。動力も十分です。ただし、ぼくの操縦経験が足りないため、ちょっとした失敗があって、それで失速したわけです。うまく操縦すればちゃんと飛んだはずで、その点は疑いありません。
いまや動力飛行の実現はすぐそこまできています。機体の強度も十分です。昇降舵の修理もすぐ終わるでしょう。安全な着陸も可能です。天候さえよければ、この手紙が着く前に、ぼくらは動力飛行に成功するでしょう。
フライヤーの前舵――昇降舵を直すのに2日ほどかかった。飛行の準備がととのったのは12月16日の午後遅い時間であった。その夜、強い北風が吹いて、翌朝にはキャンプのそばの水たまりに薄い氷がはっていた。朝のうちは毎時25マイルの風が吹きつづけたので、兄弟はキャンプの中で天候の回復を待った。
午前10時頃、風はまだおさまっていなかったが兄弟は機体を外に出し、飛行の準備をはじめることにした。まずキャンプのそばに滑走レールを敷き並べた。風が強いので、遠くの丘の斜面まで行かなくても、水平の場所で風に向かって走ればうまく飛び上がれるだろうと考えた。一方、風の強いのは危険でもある。しかし着陸時の速度をそんなに落とさなくてもよいことを考え合わせると、その方が利点は大きいと判断したのだ。

(ライト兄弟のキャンプ小屋とフライヤー機――1903年)
滑走レールはキャンプ小屋の西側、すぐそばに置いた。平坦な場所が100フィートほどつづいているところであった。風が冷たすぎて、レールを並べながら、ときどき小屋の中にとびこんで冷えた身体をストーブで暖めなければならなかった。
レールを並べ終わる頃、5人の人びとが立ち会いのためにやってきた。小屋の上に旗を立てて、本日決行の合図を出していたからである。
今日は先ずオービルが飛ぶ番であった。彼はフライヤーに乗りこむ前に、カメラに三脚をつけてセットした。レンズの向きはいうまでもなくフライヤーの方だが、長さ60フィートのレールの3分の2あたりで、機が地面を離れて浮き上がる地点をねらうようにした。そして立会人の一人、救命救急所のジョン・ダニエルにカメラの操作を依頼した。
「私が翼を引き上げて……」とオービルはダニエルに説明した。「機がレールを離れ、地面から2フィートほどの高さに上がり、カメラの真正面にきたとき、このボタンを押してください」
そう言い残して、オービルはウィルバーのところへ戻り、2人でエンジンをかけた。このときのもようを、オービルは次のように日記に書いている。
エンジンとプロペラが回って2〜3分後、回転数が上がるのを待って機体に乗りこんだ。午前10時35分。われわれの風力計では、風は毎時20マイルだった。(ただし後で調べたところ、キティーホーク気象台の公式風力計は毎時27マイルを記録していた)。
それからロープを解いて機体を発進させた。おそらく時速7〜8マイルになったとき、機はレールの上から浮き上がった。その瞬間、ダニエル氏が写真を撮った。
機が地面を離れた途端、前方昇降舵の操作が厄介なことに気がついた。中心に近すぎてバランスが取りにくい。そのうえ勝手に動いて、どちらか一方へ大きく動いたかと思うと、次は反対方向へいっぱいに動くのである。そのため機体は突然10フィートも持ち上がり、次の瞬間には地面に向かって突っ込むといった具合だった。その結果、滑走レールの先端から100フィートほど飛んだところで地面に突っ込んでしまった。
時間はおよそ12秒間であった。(もっとも即座に時計を止めなかったので、必ずしも正確ではない)
この最初の飛行でエンジン操作のためのフライト・レバーが壊れ、昇降舵の下のスキッドにひびが入った。
このときストップウォッチを持っていた人が誰であろうと、機体の接地と同時に時計を止めるのを忘れたのは当然だったであろう。決して非難するには当たらない。なにしろ人間をのせた飛行機械が史上初めて、みずからの動力で地面を離れ、速度を落とすことなく前方へ飛びつづけ、離陸したところと同じ高さの地面に着陸したのである。
ライト兄弟は、救命救急所からきた人びとの助けを借りて、フライヤーを再び滑走レールの上に戻した。オービルの日記は次のように続いている。
修理が終わったのは11時20分だった。今度はウィルの番だ。飛行コースはほとんど僕のと同じだった。このときも機は上下動を繰り返したが、滞空時間はやや長く続いた。距離は測らなかったけれども175フィートほどではないかと思われる。風はさほど強くなかった。
そこで、もう一度、救命所の皆さんの力を借りて機をレールの上に戻した。11時40分頃、3度目の飛行は僕の番だった。ウィルと同じくらい飛んだとき、不意に左の方から突風がきて左翼を持ち上げ、機は右の方へ勝手に横すべりして行った。僕は急いで昇降舵を下げ、着陸しようとした。
このとき驚いたことに、左翼が先に地面に当たった。ということは、われわれの作ったこれまでの機体にくらべて、このフライヤーはラテラル・コントロールの効きがはるかに良いということである。横すべりをはじめたときの高度はたぶん12〜14フィートだったと思う。
丁度12時、ウィルが4度目の飛行を開始した。飛行中の姿勢は前3回と同じく、上下動がつづいていた。しかしウィルは、それをうまくなだめながら300フィートから400フィートを越え、ついに離陸地点から800フィートのところまで達した。そこで急に上下動が大きくなり、機は地面に突っ込んだ。
前方の昇降舵は完全に破損した。けれども胴体部分の構造には何の異常もなかった。このときの飛行距離は852フィート、59秒間であった。
われわれは昇降舵を外して、機体をキャンプ小屋のそばまで運んだ。そして小屋の西側数フィートのところに置いて、5回目の飛行をどうするか話し合っていた。そのとき突風が吹いて、機体が持ち上がった。みんな小屋の外へ跳び出し、機体を抑えようとした。ウィルは機体の前方にとびついたが無駄であった。僕とダニエルは後部のスパーをつかんだ。けれども機体は大きく傾いて、われわれの方へ覆いかぶさるようにして倒れてきた。
ダニエルは飛行機などさわったことがなかったが、内側に入りこんでしまった。そのため何度も頭を叩かれ、ひっくり返ってはまた起きあがって機体をつかまえようとした。彼の周りにはエンジンやチェーンがあって、そんな中から脱出できたのは奇蹟のようなものだった。
エンジンの脚は折れ、チェーンガイドはひん曲がり、後方のリブはほとんど全て破損した。これでわれわれの気持ちもすっかりしぼんでしまった。

(オービルとフライヤーのレプリカ――スミソニアン博物館写真)
こうしてライト兄弟の初飛行は成功し、同時にまたこれ以上の飛行を続けることはできなくなった。けれども彼ら2人の成しとげたことは人類史上永遠に残る偉業であった。
ところが奇妙なことに、その偉業がおこなわれた現場には、ほとんど何の興奮もなかったように見える。それというのも、おそらくは長年にわたって準備してきたことが準備した通りにおこなわれたからであろう。ライト兄弟にとって、それは当然のことであり、決して驚くようなことではなかったのだ。
おまけに2人の服装も、何か特別な冒険に挑むというようなものではなかった。普通のビジネス・スーツ、白いワイシャツとカラーにネクタイを結んでいた。フライヤーに腹ばいに乗るときもそのままの服装で、これは当時のビジネスマンの服装と全く変りがなかった。つまりライト兄弟は、気持ちも服装も冷静だった。
彼らの偉業を目撃した立会人たちも、いま目の前でおこなわれたことが人類史上どんな意味を持つのか、よく理解できなかったにちがいない。兄弟の態度も普段と変わりはなく、したがって彼らもまた別の意味で興奮したり驚いたりするようなことはなかった。
やがて、突風でひっくり返ったフライヤーを調べたライト兄弟は、小屋に入って昼食をつくり、それを食べて食器を洗うと、4マイルほど歩いてキティホークの気象台へ出かけた。父親へ電報を打つためである。当時こんなへき地で電報を打つ人はほとんどいなかった。そのため電報局がなく、必要なときは気象台の政府専用の通信網を使うことが許されていたのである。ここから発せられた電信はノーフォークへ送られ、そこから普通の電信会社にわたされる仕組みであった。
気象台の中でウィルバーは風の記録を調べはじめた。その間にオービルは父親に宛てて次のような電報を打った。
「木曜朝4回の飛行に成功。4回とも21マイルの風に正対し、エンジン動力だけで水平に発進、平均対気速度31マイル、最長59秒間。クリスマスの日、新聞記者を家に呼ばれたし。オービル」
兄弟はクリスマスまでには家に帰ると父親に約束していた。そのとき今日の飛行について発表するつもりだったのである。
ところが、この電文が気象台の電信技師、ジョセフ・ダッシャーからノーフォークへ発信されて間もなく、先方の技師から問い合わせが戻ってきた。このニュースを友だちの新聞記者に話してもいいかというのである。問い合わせがきたとき、オービルはまだ気象台の中にいて、ウィルバーと共に風速計の記録を調べているところだったが、彼らはノーフォークからの問い合わせを拒否した。クリスマスまではニュースを秘密にしてくれという答えが、再びダッシャーからノーフォークの電信技師に伝えられた。
けれども我慢のできなかった技師は友だちに話をした。ノーフォークの『バージニアン・パイロット』紙のH.P.ムーア記者である。このニュースを聞いたムーアは再確認する必要があると考えた。また飛行の内容についても詳しく知りたいと思った。けれども目撃者をつきとめることができず、そのまま翌朝の新聞に記事を書いた。その見出しは次のようなものであった。
「強風の中、飛行機がキティホークの砂丘上空を3マイル飛翔」。それにサブタイトルとして「風船は一つも使わず」という言葉が付け加えられた。
何年かたって、ムーアがオービル・ライトに会ったとき、あの記事を読んでどう思ったかとたずねた。オービルの答えは「面白い記事だった。けれど99%は間違っていた。一つだけ正しかったのは飛行機が飛んだということだけだ」
こうして、ひとつの歴史がつくられた。
(西川渉、01.1.5)