ライト兄弟初飛行


ライト兄弟

人類の夢の実現

 
 

 

 今日、12月17日はライト兄弟による人類初の動力飛行がおこなわれた日である。今から97年前、1903年のことであった。この歴史的な飛行については、おそらく誰知らぬ人もないであろう。

 そのせいかどうか、改めてインターネット上で検索してみると、日本語では真正面からライト兄弟のことを書いたサイトが出てこない。たいていは別の話をするための枕言葉として兄弟の名前が引用されているのみ。中には「今日はなんの日」のように初飛行は12月14日だったという忠臣蔵討入りの日と取り違えたのではないかと思われるサイトもある。

 もとよりアメリカのサイトには立派なものが多い。日本の方は二宮忠八が多く出てくるから、インターネットは愛国心のバロメーターといえるかもしれない。とはいえ、人類の飛行の夢を現実のものにした出発点ともいうべきライト兄弟について、日本語でも説明する頁があってもいいのではないだろうか。

 そこで今日の記念日に、最も権威ある航空史家のひとり、チャールス・H.ギブス・スミスの著書『航空史通覧』(英国王立出版局、ロンドン、1960年刊)からライト兄弟の飛行について書いてある部分を読んでみようと思う。ただし長大な英文なので、ここでは拾い読みにとどめる。

 

 ライト兄弟――兄のウィルバー(1867〜1912年)と弟のオービル(1871〜1948年)は、生まれ故郷のオハイオ州デイトンで自転車店を営んでいた。ここで、かれらは自転車を売ったり修理したりするほか、自作の自転車も売っていた。

 子どもの時から飛行機に興味を持っていた兄弟は、自転車業によって貯めた資金を航空の研究に注ぎこみながら、当時手に入る限りの本や文献を読みあさった。その中で最も大きな影響を受けたのが『飛行機械の進歩』という本であった。ワシントンのスミソニアン研究所に頼んで送って貰ったものである。

 著者のオクターブ・シャヌート(1832〜1910年)という人は当時、航空知識の普及に関して最も貢献したアメリカ人であった。彼が航空に関心を抱いたのは1875年イギリスにゆき大英航空学会で航空学に名を残すF.H.ウェンハム(1824〜1908年)の話を聞いてからである。シャヌートはウェンハムの古典的な論文「空中移動」を初め、航空に関する文献を数多く収集すると共に、それらを集大成して1894年に『飛行機械の進歩』を書いたのである。

 この本を読んだライト兄弟は、著者のシャヌートに自分たちの考えを書いた手紙を送って教えを乞うた。それに対してシャヌートは助言を与えると共に、兄弟を強く励ました。この激励こそがライト兄弟を成功に導いた秘密であった。実は『飛行機械の進歩』にはグライダーのテスト飛行中に墜死したドイツ人オットー・リリエンタール(1848〜96年)も強い影響を受け、鳥と人間の飛行に関する第2のバイブルといわれる『鳥の飛翔』を書くことにもなった。

 

 さて、ライト兄弟が初めて飛行機をつくったのは1899年8月のことであった。それは2つの主翼を持ち、後方には水平安定板をそなえた凧である。上下2枚の複翼をつなぐ何本かの支柱のうち左右両端の支柱にはひもがつないであり、それを地上から引っ張って翼の形状をねじ曲げるようにして一種の操縦操作をするようになっていた。

 この凧を、兄弟は繰り返し飛ばして実験と研究を重ね、少しずつ飛行機械の概念を絞りこんでいった。そして1900年9月、人の乗るグライダーを作り上げる。翼は複葉で、スパン17フィート。操縦方法は前年の凧の実験から得られた結果にもとづいて、人の操作で一方の翼端の湾曲を増すと同時に、他方の湾曲を減らすことにより機体の水平を保ったり、バンクしたりするような仕組みになっていた。

 彼らは、このグライダーをノースカロライナ州キティホークに運んだ。この地が選ばれたのは、ワシントンの気象台に相談して、強い恒風のあることが分かったからである。グライダーの試験飛行は10月いっぱい続けられ、兄弟は自分たちの考えが間違っていないことを確認した。

 翌1901年、2機目の複葉グライダーがつくられた。この2号機はスパンが22フィートに延び、4インチの下反角がつき、操縦用のワイヤは腹這いの身体を載せる台座に結ばれていた。これを彼らはキティホークに近いキルデビル・ヒルに運び、7月27日から飛ばしはじめた。飛行は8月なかばまで続けられたが、この間シャヌートも現地にやってきて試験飛行の様子を見ながら、兄弟に助言を与えた。

 飛行はライト兄弟のうちの1人が腹ばいになって乗り、もう1人と地元民が翼の両端をつかんで砂丘を走り、機体が浮き上がったところで手を放すというやり方だった。繰り返し飛んでいるうちに翼のキャンバが深すぎることが判明した。それを直すと操縦性は一挙に良くなり、速度43km/hまで操縦性を保ちながら距離118mを飛ぶことができた。

 1902年には3機目のグライダーがつくられ、兄弟は繰り返し飛行した。この間の最長距離は189m、対気速度は56km/hに達した。これらの飛行経験から兄弟の操縦技術が上達し、さまざまな理論的、現実的な問題も解消していった。2人は操縦技術によって飛行中の安定を保ち、操縦操作が可能であると確信するようになった。

 

 かくて、いよいよ、このグライダーにエンジンを積みこんでもいいのではないかという考えが出てきた。問題は、そのエンジンとプロペラである。もとより当時、たくさんの自動車用エンジンが存在した。しかし出力の割に重すぎて、飛行の用には適さない。やむを得ず、兄弟は航空用エンジンを自分たちでつくることにした。そこが彼らの素晴らしいところで、水冷12馬力のエンジンは付属品に水や燃料を加えた重量が約90kgになった。

 エンジンよりもっと困った問題がプロペラであった。参考となるような文献はどこにもなかったのである。しかし、これも兄弟は基礎研究からはじめて、満足すべきエアスクリューをつくり上げたのだった。

 こうして出来上がった初めてのエンジン付き飛行機械を、ライト兄弟は自分たちで製造していた自転車にちなんで「フライヤー」と名づけた。フライヤーは1903年9月に完成し、23日から25日にかけてキルデビル・ヒルに運ばれた。行ってみると、そこには前の年にテスト飛行に使って壊れたままのグライダー3号機が放置されていた。兄弟はそれを修理し、フライヤーと同じように後方にダブル・ラダーを取りつけた。そして先ず、このグライダーを使って何度も飛行テストをおこない、その結果をフライヤーに反映させて行った。

 

 12月12日、フライヤーの飛行準備がととのった。しかし気象条件が悪く、飛行は12月14日まで延期になった。兄弟はキルデビルの近所の人びとを呼び集め、フライヤーを滑走用のレールの端まで持っていった。初飛行の準備がととのった機体はスパン40フィート4インチの複葉機で、2本の長いそりの上に乗っていた。12馬力のエンジンは2つのプッシャー式プロペラを駆動するようになっていた。

 外観と操縦方式は1902年のグライダー3号機に似ていたが、後方に垂直に立ったラダーは2枚、前方に水平に取りつけられた昇降舵も2枚になっていた。

 この日、12月14日、長さ60フィートの滑走用レールの上に置かれたフライヤーを前にして、ライト兄弟はコインを投げ、どちらが先に乗るかを決めた。兄のウィルバーが勝って乗りこみ、いよいよ走り出した。砂丘を走り下ったフライヤーはレールから離れて浮き上がったかに見えたが、急に機首が上がり、失速して砂の中に突っ込んだ。機体はわずかな破損ですんだ。降りてきたウィルバーはみずから昇降舵を上げすぎたための失敗であることを認めた。

 もっとも、このときの離陸がうまくいったとしても、真の飛行と認められたかどうかは分からない。というのは滑走用のレールが砂丘の斜面に沿って下向きに敷設されていたため、自力ではなくて重力を利用して飛んだとみなされたかもしれないからである。


(12月14日の失敗)
 

 フライヤーはたちまち修復され、12月17日(木曜日)、天候が回復した。風は毎秒9〜12m。離陸滑走用のレールは今度は水平に敷設された。地元の人びとが再び呼び集められた。目撃証人になってもらうためだが、その人数は5人。カメラも据え付けられた。

 今度は弟のオービルが乗る番だった。エンジンがかかって、午前10時35分、機体をしばっていたロープが解かれた。フライヤーはレールの上を40フィートほど走って浮き上がり、波打つような飛び方をして120フィート前方へ着陸した。飛行中の上下動は昇降舵の操作に不慣れだったために、オーバーコントロールになったからである。

 大気速度は毎時およそ30マイルであった。滞空時間はわずか12秒間だったが、オービルはのちに、この飛行について「人をのせて、みずからの力で離昇し、速度を減じることなく前進し、離陸地点と同じ高さの場所に着陸した世界史上初の飛行であった」と書いている。

 この日午前中、さらに3回の飛行がおこなわれた。ライト兄弟は2回ずつ交互に操縦した。2回目の飛行は約175フィート飛び、3回目は200フィートと伸びて、4回目は59秒間、852フィートを飛行した。この4回目の飛行で、着陸のときに昇降舵が壊れたため、この日の飛行はうち切られた。

 そしてフライヤーをテントのそばに戻した。ところが数分後、不意に突風が吹いて機体がひっくり返り大破した。飛ぶことに夢中になっている間に、季節はいつの間にかきびしい冬になっていたのである。

 
(12月17日の成功)

 以上がギブス・スミスの著書の一部である。これを読むだけでも、ウィルバーとオービルの2人が子どものときからの関心を深めつつ研究と実験を重ね、多数の先人たちに教えを求め、激励を受けながら、用意周到に準備を進めていったことが分かるであろう。

 ここには書いてないが、彼らは自転車の回転装置を利用して翼型と揚力との関係を測定したり、扇風機を使って40〜55km/hの速度をシミュレートできる風洞をつくり、実際に飛んでみなくてもあらかじめ結果を予測しながら実機の試作をしていたのである。

 上の文章はやや物語風なところもあるが、歴史家は物語がうまくなくてはならないとは英国の偉い歴史家が言ったこと。ギブス・スミスがそう考えていたかどうかは分からない。原著の方には物語だけでなく、技術的な説明も多く、また時間的にも初飛行からかなり後のことまで詳しく長く書いてある。しかし活字が小さいので眼が疲れてしようがない。やむを得ず、拾い読みをしながら勝手な日本語に直したもので、単なる翻訳ではない。いずれ、技術的な詳細も本サイトで取り上げるかもしれない。

 なお、毎日新聞のウェブサイトには1998年7月10日付けで、100周年を迎える2003年にライトフライヤーを復元し、12月17日にキティホークで飛ばそうという試みが、米航空宇宙学会の有志の手で進められているという記事が掲載されている。今後3年間は初飛行100周年に向かって、ライト兄弟にちなむ行事がさまざまに企画されるであろう。 

(西川渉、2000.12.17)






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