ソ連ヘリコプターの歴史

 ―― その2 ――

 

独裁者の功績

 ソ連のヘリコプターを発展させる上で大きな貢献をした人物のひとりはスターリンである。1951年、東西間の冷戦が緊張の度を増し、朝鮮戦争が激化した頃、この独裁者は第3次世界大戦の勃発を予感しながら、当時の主だった航空機設計者たちをクレムリンに呼び集めた。そして軍用にも民間用にも使える大型輸送ヘリコプターの建造を命じたのである。

 そこに呼ばれていたイリューシンとツボレフは、これに対して、ヘリコプター開発の経験がなく、しかも自分たちの設計局は飛行機の開発で忙しすぎると弁解した。カモフは折りからのKa-15の設計に追われていた。しかしミルはMi-1の生産が軌道に乗り始め、今やその大型化を考えていたところで、まさしくスターリンの要求に応ずるべき時期であった。ヤコブレフは、自分も別件で忙しいが、ヘリコプターの計画には興味があると答えた。

 そこでスターリンはひと晩考えて、翌日、今度はミルとヤコブレフだけ呼び、彼自身の命令を伝えた。ミル設計局は12人乗り、単ローター形式の単発ヘリコプターを作ること。ヤコブレフ設計局はその2倍の24人乗り、双ローター形式の双発ヘリコプターを作ること、というのである。しかも2人の設計者をびっくりさせたのは、これらのヘリコプターを1年以内に設計し、実機を製作し飛行させよ、というのだ。

 スターリンによれば、ソ連のヘリコプターは今や、西側に比べてはるかに遅れてしまった。その遅れを大急ぎで取り戻す必要がある。1年という期限に議論の余地はないというのであった。Yak-24とMi-4は、この強引な命令から生まれたのである。

 

ヤコブレフYak-24"ホース"

 ソ連型チヌークともいうべき大型タンデム機で、もちろんチヌークより早く実現した。乗客40人という大きさは、まさに民間型チヌーク44人乗りに匹敵するものである。しかし時代が早いために、エンジンが18気筒の星型ピストン・エンジン、シュベストフASh-82V(1,700shp)だったのはやむを得ない。これが胴体の前と後に付き、前後4枚ずつのローター・ブレードも、グラスファイバーどころか、木製羽布張りであった。

 このヘリコプターの開発に当たって、ヤコブレフが最も苦しんだのは、振動だったらしい。地上試験機は目標300時間の試運転中、余りに振動が激しすぎ、178時間で後方エンジンの取付け部が破損し、ローターが前傾して砕け散った。おまけに油送管が破裂して燃料が噴き出し、それに火がついたという。

 それでもYak-24は1952年7月3日、スターリンの指示通り、1年以内の初飛行にこぎつけた。この飛行機から降りてきたパイロットは「まだいくらか振動が残っている」といったが、これは設計者に気を使った言葉で、実は大変な振動があり、危険なほどであったという。

 その振動のために、Yak-24が実用化されたのは1955年。当時の量産機としては世界最大のヘリコプターで、この年、搭載量2トンを高度5,082mまで持ち上げる記録を作った。またモスクワからレニングラードまで645kmをノンストップで飛んだこともある。

 その後いくつかの改良が続き、1958年にはローターを大きくし、キャビン幅を広げたYak-24Yが登場、1961年ロンドンで開催されたソ連見本市にはイフチェンコ・ターボシャフト(2,700shp)2基を装備する旅客輸送用のYak-24Pが出品されたが、実用化された証拠はない。

 かくてYak-24は、構想は大きかったが、設計技術と製造技術が伴わず、生産は100機余りで終了した。ヤコブレフも、その後ヘリコプターを作らなかった。

 

ミルMi-4 "ハウンド"

外観はシコルスキーS-55に似ているが、大きさや性能はS-58に匹敵する。兵員は14人、貨物は1,740kgの搭載が可能だし、カーゴスリングは1,300kgまで吊り上げられる。

 初号機の完成は1952年4月。スターリンの指示からわずか7か月という驚くべき早さで、翌月初飛行、翌53年夏には早くも実用化され空軍に配備された。エンジンはASh-82V(1,700hp)が1基。1956年には搭載量2トンで高度6,018m、500km周回コースで速度187.25km/hという世界記録を作っている。生産量は数千機で、1967年頃終了。中国でも1959年にライセンス生産が始まり、直5(H-5)として約350機が作られた。

 なおMi-4の近代ヘリコプターとしての特徴は盲目飛行,夜間飛行が可能で、防氷装備を持ち、操縦系統に油圧サーボが組み込まれていることなど。これらによって同機は、他の外国ヘリコプターを一挙に数年追い越し、ソ連のヘリコプター技術は再びトップに立った。ミルのヘリコプター設計者としての地位も、これで不動のものとなったのである。

 

ミルMi-6 "フック"

 ミルMi-6は1957年11月17日、ソヴェト革命40周年の吉日を選び、モスクワのブヌコーボ空港で世界中の共産党支持者が見守る中で初公開された。その巨大さには観客の誰もが圧倒されたという。

 確かにこのヘリコプターは、当時の最大級のヘリコプターの4倍にも達する大きさであった。総重量42,500kgも、それから25年後のシコルスキーCH-53Eの33トン余を上回り、ローター回転中の全長41.75mはCH-53Eの30.2mをはるかにしのぐものであった。公開当時すでに、Mi-6は12トンを積んで2,000mまで上昇するという記録を作っていた。 そのうえMi-6は量産された初の双発タービン機でもある。また初めて300km/hを越える速度を出したヘリコプターで、1964年8月26日には340.15km/hの速度記録を作っている。生産数はおよそ800機。そのうち500機が空軍に引き渡され、兵員65人、もしくはミサイル、ロケット、車輌などの重量物輸送に使われた。

 1967年のパリ航空ショーには、旅客輸送用のMi-6Pが出品された。同機は乗客80人乗り。窓が大きな角型に改められ、パリとロンドンの中心部を1時間20分で結ぶといわれていたが、残念ながら誰も実行に移そうとはしなかった。パンアメリカン航空も一時はこれでヘリコプターの旅客輸送を考えたが、燃料消費が大き過ぎるので諦めたという。

 

ミルMi-10 "ハークA"

 Mi-6を基本とし、エンジン、トランスミッション、ローターなどを利用しながら、脚と胴体を改めた大型クレーン・ヘリコプター。胴体下面は機首先端から尾部までまっすぐ平らで、これを巨大な脚で地上3.75mの高さに支える。貨物はプラットフォームに乗せ、4本の脚の間に抱きかかえるようにして運搬する。最大搭載量は15トン。またケーブルで吊り下げる場合は8トンである。25トン余を積んで2,000m以上の長い滑走離陸をした記録もある。

 設計上の特異な点は右脚が30cm短く、胴体が右へ1°30`傾いている。これは尾部ローターの推力によって機体が振り回されないようにするため。同時に離着陸の際に脚がすべって転ぶのを防ぐためという。乗員は脚が高いので、左前脚のはしごをよじ登る。また飛行中に緊急事態に陥った場合は、キャビンの下に伸縮自在の脱出用ハッチが付いているので、そこから跳び出せば脚にぶつからずに、パラシュートで逃れることができる。キャビン内には乗客14人の搭載が可能。

 Mi-10の初飛行は1960年末。61年に公開され、65年にはパリ航空ショーにも出場した。67年には米ペトロリアム・ヘリコプター社(PHI)が本機を購入したが、FAAが耐空証明を認めず、米国内では飛べなかった。そこでボリビアの石油開発で重量物運搬に使われた。PHIによれば、Mi-10は構造は簡単で整備はやり易かったが、ソ連からの部品補給が悪く、結局は南米でスクラップにされた。生産数は55〜60機程度のもよう。

 

ミルMi-10K ハークB短足機

 Kはロシア語の"短足"を意味する言葉の頭文字。1966年春、モスクワで初公開された本機は、Mi-10にくらべて脚がいちじるしく短くなり、機首の下にゴンドラが付いていた。このなかには後向きの操縦席があって、荷物を見ながら荷役と飛行操縦ができるようになっていた。

 カーゴスリング容量は最大11トンに増加。のちにエンジンがMi-10のソロビヨフD-25V(5,500shp)2基からD-25VF(6,500shp)2基に変わって、さらに14トンに増加した。

 1967年にはパリ航空ショーにも出場したが、このMi-10Kがどのくらい量産されたかは分からない。

 

ミルMi-12 "ホーマー"

 ミハイル・ミル最後の作品――というのは、この巨人機が写真だけで公開され、40トンのペイロードを積んで高度2,225mまで上昇という記録を作った1969年、ミルは60歳の誕生日にレーニン勲章を授けられ、それから間もなく、70年1月にガンで死亡したからである。

 Mi-12の胴体は、アントノフAn-22巨人輸送機に匹敵する。An-22で積んできた重量物をそのままMi-12に積み換えて道路のないへき地や前線に届けるためで、従って胴体の断面は変わらず、長さが4.87m短いだけ。ローター機構はMi-6のそれを2つ左右に並べ、相互に1.5mずつ重なり合う。エンジンは高出力のD-25VF(6,500shp)が4基。機首のコックピットは2階建てで乗員は6人。下の方に操縦士2人と機関士、電気技師、上に航法士と無線通信士が乗り組む。

 初飛行は1968年なかば頃と見られる。もっとも、このヘリコプターは謎に包まれていて、離陸して30秒もたたぬうちに右ローターが破損し、降着装置を壊して不時着したという説がある。2号機も1971年のパリ航空ショーで公開されたが、その後本機が量産されたという話は聞かれない。

(西川 渉、『航空ジャーナル』1984年6月号)

 

スクール案内)    (トップページへ戻る