ソ連ヘリコプターの歴史

 ―― その1 ――

 

ソ連ヘリコプターのあけぼの

「ソ連はまさしくヘリコプター誕生の地である。ヘリコプターが初めて飛んだのも、その発達を促したのもソ連である」――"ロシアヘリコプター界の長老"と呼ばれるボリス・ユリエフ(1889〜1957)は、母国とヘリコプターの関係を、このように誇らかにうたい上げている。

 西側世界からすれば、むろん、この言葉には疑問があり、ヘリコプターが史上初の飛行をしたのは1907年、フランスのポール・ユルニュとされている。またソ連機には模倣や盗用が多いという見方もあって、彼我の歴史論議は必ずしも一致しない。が、ここではそうした見解の相違を承知の上で、ソ連のヘリコプターの歴史をもう一度ながめてみよう。

 その発端はおよそ230年前にさかのぼる。"ロシア科学の父"といわれるミハイル・ロモノソフ(1711〜1765年)は1754年、それより300年前のレオナルド・ダビンチの"空気ねじ"の原理を全く知らぬまま、ほとんど同じような回転翼の原理を発見したという。それは「二つの翼を時計のゼンマイのようなもので互いに逆向きに回し、空気を押し下げて、その反動で上昇する」ものであった。そして模型をつくり、温度計を吊り下げて上空の気温をはかろうとした。実際は重過ぎて飛べなかったが、科学アカデミーからは「すばらしい成果が期待できる」と評価された。

 20世紀に入るとユリエフがヘリコプターの研究に手を着け、1909年、同軸ローター機を作る提案をしたが、適当なエンジンがなくて実行に移せなかった。しかし1912年、今度はシングル・ローター機を作り、25hpのアンザニ・エンジンをつけ、国際航空自動車ショーに出品して金メダルを獲得した。もっともこのヘリコプターは実際に飛んだわけではなく、ショーの後の地上運転試験でエンジン回転数にむらがあったため、ローターの軸が折れて駄目になってしまった。

 ユリエフはもうひとつ、オートローテイションの原理に初めて気がついた人でもある。それを彼は「空中でエンジンが停止しても、ローターが回っていれば、一種のパラシュートになる」と説明し、"回転翼滑空"と呼んだ。

 同じ頃、イゴール・シコルスキー(1889〜1972年)は、生まれ故郷のキエフで、同軸反転式ローターを持つヘリコプターを試作した。1号機は1909年、2号機は1910年に完成したが、いずれもエンジン出力が不足し、振動がひど過ぎて、飛行するには至らなかった。彼はヘリコプターを諦めて固定翼機の設計に移り、1917年の革命後はアメリカに亡命した。しかし、1910年の2号機はシコルスキー・シリーズの最初をなすS-1と名付けられている。

 革命後のソ連では、回転翼機の研究がいよいよ盛んになり、1918年末TsAGI(中央流体力学研究所)が設立された。ここから1932年に1-EAと呼ぶ最初のヘリコプターが生まれ、第2次大戦中にはニコライ・カモフ(1902〜1973年)を中心としてオートジャイロの開発が進められた。

 戦後は、1946年アレクサンドル・ヤコブレフ(1906〜)がヘリコプターの研究に着手、47年にはミハエル・ミル(1909〜1970年)のヘリコプター設計局が発足、49年にはカモフ初のヘリコプター"空飛ぶバイク"が飛行した。以後ソ連のヘリコプター技術は近代的な進歩と発展の道を歩み始める。

 

 TsAGI 1‐EA

 1930年に飛んだソ連初のヘリコプターである。胴体は鋼管の骨組みだけで、パイロット1人乗り。直径11mの主ローターのほかに、機体の前後に小さな反トルク・ローターがが2つずつ付き、互いに反転しながら方向舵の役目をする。エンジンはM-2(120hp)が2基だから、ソ連のヘリコプターは最初から双発機だったといえようか。総重量は1,150kgだった。

 初飛行は1930年末。機は左右によろめきながらふらふらと飛び上がり、9mほど前進して無事着陸したという。しかし操縦はまことに厄介で、その後の試験飛行で2度も墜落した。それでも1932年8月には高度605mに達したことになっている。この記録は、西側では認められていないが、当時は18mという上昇記録が西側ヘリコプターの最高だったから、本当ならばまさしく"記録破り"である。また1933年には滞空14分間、速度29.93km/hという記録をつくった。これらはソ連がヘリコプター発達史の上で最初から先頭を切っていたという主張を示すものでる。

 

 ブラツーヒン機

モスクワ航空研究所のイワン・ブラツーヒン(1903〜?)は、1940年から10年間にわたってヘリコプターの開発を進めた。

 その基本設計は普通の飛行機のような胴体と尾翼を持ち、左右に主翼のような骨組みだけの桁を張り出し、その両端にエンジンとローターをつけたもの。当時のローター駆動軸が連動していなく、別個に独立しているために、実は非常に危険なものであった。片発が停まると左右のバランスが崩れ、機体は石のように落ちるはずである。

 最初の2MGオメガはM-6エンジン(220hp)2基をつけて1943年夏初飛行、ホバリング旋回やオートローテイション着陸のテストまでしたが、振動が激しくて毎回15分以上の飛行を続けることはできなかった。その後G-2、G-3を経て、1947年に飛んだG-4はイフチェンコAI-26GRエンジン(500hp)2基を持ち、安定したホバリングも可能になった。

 そしてB-5、B-9、B-10と改良設計が続き、最後のB-11はAI-26GRF(550hp)を付けて、1948年と49年のモスクワ航空パレードに出場した。しかし、これを最後の華として、ブラツーヒンはすべて実験のみに終わった。


(B-11)

 

 ヤコブレフYak-100

ヤコブレフは有名な戦闘機設計家だったが、ヘリコプターの設計にも手を染め、戦後間もなく同軸反転式ローターの複座実験機を製作、1948年にYak-100を開発した。

 もっとも同機はシコルスキーS-51をそのまま真似たもので、外観の相違はわずかにテールブームの先端がはね上がっているだけ。自重は1,800kg余りで、S-51よりもやや軽かった。エンジンはAI-26GRFL(575hp)。座席数は複座と3座の2種類があり、1号機は1948年11月、2号機は49年7月に完成した。

 しかし本機は振動が多く、あちらこちらをいじり回しているうちに時間がたち、ついに実用にならなかった。ただしYak-100はこの試験中に最大速度170km/h、最高速度5,250mを記録している。

 

 ミルMi-1"ヘア"

 1948年ミルもヤコブレフと競争して、同じ2〜3人乗りの連絡用ヘリコプターの設計に乗り出した。これまたS-51を模したもので、主ローター機構は英ブリストル171に倣っていた。初飛行は1948年9月頃。51年に量産化され、ソ連最初の実用ヘリコプターとなった。

 エンジンはイフチェンコAI−26V(575hp)。自重1,760kg、総重量2,550kg。開発試験中に最大190km/h、地上効果内ホバリング高度3,350mの記録を作った。ソ連軍への配備は51年末から。

 1961年には少数のMi-1モスクビッチが作られた。同機は政府高官の乗用機で、旧来の木製羽布張りのローター・ブレードが金属製に変わり、キャビン内部は厚い壁で防音され、油圧操縦装置と最新の計器類をそなえたデラックス機であった。

 なおMi-1は1955年からポーランドで製造されるようになった。同機はSM-1と改称され、1,700機以上が作られた。そのうち250機はソ連へ逆輸出されている。また61年からは改良型5人乗りのSM-1Wが量産に入った。

 Mi-1の総生産機数は、ポーランドの分も含めて、2,500〜3,000機と見られる。

 

 ミルMi-2 "ホップライト"

 Mi-1ピストン単発機をタービン双発機に改めたのが、このMi-2である。軽量・強力なイゾトフGTD-350フリータービン(400shp)2基をキャビンの屋根の上につけたため、内部は8人乗りに拡大、出力が40%増えて最大搭載量700kg、カーゴスリング容量800kgと増大した。これらの新しい設計はミル設計局によるもので、そこにはMi-6の開発から得られた技術が取り入れられている。

 初飛行は1961年。翌年秋に公開され、原型2機の試験飛行が進んだが、1964年ポーランドのPZLスィドニク工場へ開発と生産が引き渡された。このポーランド製Mi-2の初飛行は1965年11月4日。量産は翌年から始まり、79年には3,000号機が完成した。

 これらのMi-2は、ソ連に逆輸出された2,000機余を含めて、軍・民両用に幅広く使われている。軍用機としては兵員輸送、負傷兵救出、偵察のほかに対戦車用ミサイル4基やロケット、機銃などをつけ、軽攻撃にも使われている。


(Mi-2)

 なお本機にアリソン250−C20B(420shp)2基をつけたカニア(凧)は1979年に初飛行し、のちに250−C28(500shp)に換装された。しかし、これらの改良計画は残念ながら、1980年8月以来のポーランド騒乱のためにほとんど進んでいない。

(西川 渉、『航空ジャーナル』1984年6月号)

 

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