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![]() 記録破りのヘリコプター
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人間はあらゆる記録に挑戦する。 大勢で縄跳びをしたり、何時間もダンスを続けたり、わんこそばを250杯以上も食べたり、長大なのり巻きを作ったり、電話ボックスの中に何人もの人を詰め込んだり、2人3脚ではなく30人31脚の駆けっこをしたり……。これらは、しばしばギネス・ブックの対象になるが、「空のギネス・ブック」(英国1977年刊)にも太古の昔から大空に挑んできた人間の歴史が、厖大な記録となって収められている。 その中の「ロータークラフト」の章は、回転翼の原理を考えたレオナルド・ダビンチに始まり、初めて飛んだヘリコプター(模型)は14世紀に登場、初めて人を乗せたヘリコプターは1907年に飛行、初の軍用ヘリコプターはシコルスキーXR-4、英仏海峡を初めて渡ったヘリコプターはフォッケFA223(1945年9月)、ヘリコプター定期運航はロサンゼルス航空のシコルスキーS-51による郵便運送(1947年)、初の定期旅客ヘリコプター便はブリティッシュ・ヨーロッパ航空(BEA)のS-51によるカーディフ〜リバプール線(1950年)、初の国際ヘリコプター便はサベナ航空S-55によるブリュッセル〜ロッテルダム線(1953年)、初めて戦闘用に設計されたヘリコプターはベル209ヒュイコブラ(1965年初飛行)、世界で最も多くのヘリコプターを使っている軍隊はアメリカ陸軍(1970年当時で9,000機近い)などの記録が見られる。 ここでは以下、ギネス・ブックとは別の角度から、ヘリコプターの記録を見てゆくことにしたい。
ヘリコプターの初飛行ヘリコプターが歴史上初めて人をのせて真の飛行をしたのは、1907年11年13日のことである。フランス人ポール・コルニュが24hpのエンジンで前後の大きなうちわのような回転翼を駆動するヘリコプターに乗り、地面を20秒間離れ、約30cm(!)の高さまで上昇した。 これより先の8月24日には、ルイ・ブレゲーとシャルル・リシェのつくった「ジャイロプレーン1号機」が人をのせて高さ60cmまで飛び上がった。しかし操縦性が不十分のため、4人の助手が地上で機体の4隅を支えていなければならず、真の自由飛行とは認められなかった。
![]() [注]『航空の現代』<歴史篇>参照
エミーシェン2号機ヘリコプターによる初の公式記録をつくったのは、フランス人、エチエンヌ・エーミシェンである。彼の1人乗りの回転翼機は2枚ブレードのローター4個を持ち、1922年11月11日60〜80mの飛行に成功した。そして1924年4月14日、360mの直線距離を飛行した。3日後には525mを飛んで自らの記録を更新、さらに5月4日1,000mの周回コースを7分40秒で飛び、そのまま14分間、1,690mを飛び続けた。また9月14日には重さ200kgの荷物を1mの高さに持ち上げ、初のペイロード記録をつくっている。
![]() [注]『航空の現代』<歴史篇>参照
最初の滞空記録ヘリコプター初の滞空記録を公式につくったのは、イタリアの軍人、マリエネルロ・ネリである。彼は1930年10月8日、ダスカニオ設計の機体に乗り、ローマのシャンピーノ空港に設けた周回コースで、8分45.2秒の飛行を続けた。また10月10日には直線コースで1,078mを飛び、その3日後には18m(!)という初の公式高度記録をつくった。ダスカニオ機は直径13.1mの2枚ブレードのローター2つが同軸で反転するもので、操縦性が良かった。というのも、シエルバのオートジャイロにならってフラッピングやフェザリングのためのヒンジをつけ、ブレード・ピッチの変更ができるとようになっていたからである。 またブレード後縁にはサーボタブがついていた。これでブレードの揚力を周期的に変更することができた。さらに機体には3つの小さなプロペラがついていてピッチ、ロール、ヨーの操縦を補助的に助ける仕組みである。エンジンは96hpのフィアットA50。総重量はおよそ800kgであった。 ネリの高度記録、その後6年間保持され、1936年9月になって自ら158mまで上昇、記録を更新した。
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ソ連の未公認記録1930年末、ソ連初のヘリコプター、TsAGI 1‐EAが飛び1932年8月14日605mまで上昇した。もっとも、当時のソ連はFAI(国際航空連盟)に加盟していなかったため、公認はされなかった。というよりも、その飛行すら知られなかった。 その後、1‐EAは何度か試験飛行をしたが、安定が悪くて墜落し、ついに開発計画も消滅してしまった。
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[注] 1-EAは実験機で、主ローター・ブレード4枚のほか、胴体の前後に同軸反転式の2枚ブレードのプロペラが2組ずつついている。1932年6月26日に初飛行した。その2か月後に最高高度に達し、量産しようという意見もあったが、このままでは実用にならないということになって、沙汰やみとなった。 胴体は簡単な鋼管構造。エンジンはM-2(120hp)が2基。ローター直径11m、空虚重量982kg。最大速度30km/h 。
ブレゲー・ドーランド3141935年6月26日に初飛行したフランスのブレゲー・ドーランド314ヘリコプターは、翌年11月24日、モーリス・クレスが乗って2kmの周回コースを飛び、いっぺんに3つの記録をつくった。すなわち航続距離44km、速度44.692km/h、航続時間1時間2分5秒というもの。 このヘリコプターは先のブレゲー機同様"ジャイロブレーン"と呼ばれ、直径16mの大きな同軸反転ローターを420hpのライト90エンジンで駆動していた。胴体は長さ9m。1938年にはエンジンをカットして、オートローテーション着陸を試みている。
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フォッケFW-61ヘリコプターの飛行性能を一挙に前進させたのは、ドイツのハインリッヒ・フォッケ博士が設計した1人乗りのFW-61である。同機は 1936年6月26日28秒間の初飛行をした。胴体左右に張り出した腕木の上に2つのローターを持ち、それを駆動するエンジン(160hp)には空冷用のプロペラがついていた。そのためオートジャイロのように見えて、当時も誤解を招いたが、もちろん本物のヘリコプターである。 このFW-61は、まず1937年5月10日ヘリコプタ−として初めてオートローテイション着陸をした。そして1937年6月25日にはエバルト・ローフルスが操縦して高度2,349m、滞空1時間20分49秒という記録をつくった。さらに翌日には周回コースでの航続距離80.604km、直線コース上の航続距離16.4km、速度122.553km/hを記録した。これらは当時のヘリコプターの公式記録を総て書き換えるものであった。 また、1937年10月にはドイツのブレーメンからベルリンまで飛び、108.974km/hという航続記録をつくり、1938年2月には有名な女流パイロット、ハンナ・ライチェがベルリンのドイッチュランド・ホールの中で、この双発ローター機を自在に飛ばしてみせた。 その後FW−61は、カール・ホーデの操縦により、1938年6月20日に航続距離230.348kmを飛び、1939年1月29日には3,427mの高度記録をつくった。
初の実用ヘリコプターFW-61を発展させたフォッケ・アハゲリスFa223(6人乗り)が初飛行したのは1940年6月12日のことである。同機は1,000hpのエンジンをそなえ、実験段階にとどまったFW-61に代わって、史上初の実用機として生産されることになった。しかし第2次大戦中のことで、工場が爆撃されたりして実際に製造され、飛行した機体はごく少数であった。 同機は1940年10月28日、高度7,090mまで上昇したが、この高度記録は公式には1954年10月まで破られていない。さらにFa223は182km/hの速度記録、1945年末には3時間42分の滞空記録をつくった。
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[注]Fa223の上のような飛行性能に注目したドイツ空軍省は、同機の前量産型を30機発注し、さらにリードタイムの長い部品については70機を追加発注した。このときの当初計画では、Fa223について5種類の派生型が考えられた。 Fa223Aは対潜水艦作戦用で、250kg爆弾2基を積んで、潜水艦攻撃に当たるというもの。Fa223Bは観測/偵察機、Fa223Cは捜索救難機、Fa223Dは輸送用、Fa223Eは操縦訓練機である。つまり今の軍用ヘリコプターに与えられた軍用任務のほとんどが、第2次大戦の初めにドイツで考えられていたのである。しかし戦争中のために、前途不確実なヘリコプターは軍用機としての優先順位が低く、戦費も生産施設もほかの航空機に回され、Fa223の生産はなかなか進まなかった。 では、わずかな製造数に終わったFa223の各機はどんな運命をたどったか、原型1号機は1941年2月5日、116回目の飛行で低空ホバリング中、エンジンが故障して地面に激突、左右に張り出した腕木が折れて大破した。 それから間もなく原型2号機(V2)が飛んだ。機首は爆撃機のような平らなガラス張りになり、D-OCEWと民間登録記号をもちながら、ノーズに7.9ミリ機銃をつけていた。 原型3号機のV3は前量産型Fa223E訓練機を想定したものであった。しかし、この頃になると、軍の方は5種類の派生型を別々につくるよりも多用途型1機種をつくるという考えに変わっていた。これに、用途に応じて爆弾ラック、カメラ、電動ウィンチ、救難用吊り上げかご、300リッター増槽、電線敷設装置などの補助器具を取りつけて多用途に使う方が合理的というのである。 Fa223の機体は前身のFW61同様、鋼管溶接構造であった。そのうえを、胴体や尾部については羽布で覆ってある。動力は9気筒のBMWブラモ323星形エンジンで、キャビン後方に取りつけられ、ファンで冷却する。出力は最大1,000馬力だが、1分間の制限があり、5分間ならば820馬力、連続出力は最大620馬力であった。 1942年6月、原型2号機と3号機は連合軍の爆撃によって破壊された。同時に、部分的にできていた前量産型7機もやられてしまった。そこで製造工場をドイツ南部のロウハイムに移し、1943年2月から製造を再開した。 ロウハイム製の1号機(V11)が初飛行したのは1943年6月21日であった。機体は軍用塗装で、ヘリコプターの有用性を見せるために各地でデモ飛行をおこなった。たとえば最大1トンの大砲、飛行機、軍用車両などを吊り上げて見せた。 つづいて完成したV12は1943年9月、ベニト・ムッソリーニを山の中の牢獄から救出するために使われた。しかし、土壇場になって故障し、ムッソリーニはフィースラー・シュトーク観測機で救出された。V12はその後、モンブランの雪に閉じこめられた17人の人びとを救出することになり、ドイツから長距離を飛んでフランスに向かった。そして山の中でチャーターを試みたがローター系統に故障が起こり、墜落した乗員が死亡した。 1944年春にはV11も墜落したDo-217爆撃機をフェルナムーアから回収しようとして事故を起こした。そこで、この両機を回収するためにV14が飛んだ。同機には空軍で最も経験を積んだパイロット2人が乗り組み、1944年5月11日に10回、翌日にも何回かの飛行をして両機の主要装備品を吊り上げ回収した。現場にはフォッケ・アハゲリス社の整備士2人と空軍の兵員があらかじめ入り、沼地の中の墜落機の残骸を解体して使えるものをヘリコプターで吊り上げ、近くの道路まで運んで、そこからトラックにのせたものである。 ロウハイムの工場は、Fa223が7機製造されたところで、連合軍に爆撃された。1944年7月のことで、その機能は完全に失われた。フォッケ・アハゲリスFa223の基礎データは次の通りである。
(西川 渉、『航空ジャーナル』1984年7月号)
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