![]() 99日間世界一周
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ジェニファ・マレイさんというイギリスの女流パイロットに会ったのは昨年の夏であった。ヘリコプターによる世界一周の途中で日本に立ち寄ったとき、元三井物産の米原慎一氏が催した歓迎会に招かれたのである。陽気で気のおけない小柄な小母さんといえば叱られるかもしれぬが、英国の新聞などは「60歳のグランドマザー」といちいち年齢を頭につけて書いている。 なるほど還暦を迎えて、お孫さんもいるということだったが、それでいて小さな単発ピストン・ヘリコプターで世界一周をしようというのだから、年齢を感じさせない若々しさと大胆さが誰しも印象に残るのであろう。 歓迎会の場でも陽気に手を振りながら入ってくると、ロンドンを出て1か月余り、全行程の3分の1を終わったところまでの冒険談をみんなの前で語ってくれた。詳しいことはいずれ本に書くということだったが、ここではロンドンから地中海を経て中東、インド、ビルマ、東南アジア、日本、ロシア、アラスカ、アメリカ、カナダ、グリーンランドを経てロンドンへ戻った行程をたどってみたい。
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ジェニファー・マレイが7年前に初めてパイロットスクールの門を叩いたとき、年の頃を見た操縦教官のクェンティン・スミスが「お茶やお華の稽古とはちがいますよ」と言ったかどうかは知らぬが、「まあ、やめた方がいいのでは……?」くらいの疑問は呈したであろう。それに対して彼女は憤然と答えた。「ライセンスが取れるまで、しごいてください」 ジェニファー・マレイはロビンソンR44小型ヘリコプターで世界一周の単独飛行を成し遂げたイギリスの女流パイロットである。年齢は今年60歳だが、7年前までは航空機の操縦のことなど考えたこともなかった。ところが1994年のある日、夫君がヘリコプターを買ってきた。しかし、忙しすぎて乗る暇がない。「私の代わりに使ってくれないか」と言われたのがきっかけとなった。 そのとき彼女には3人の子どもと孫までいたのである。しかし、それから数年間、ジェニファーはすっかりヘリコプターの操縦に夢中になり、操縦ライセンスを手にするや英国内を一周し、次いで欧州大陸を一周した。しかし、それだけでは満足できず、大きな夢を心に抱くようになった。女性として、史上初めてヘリコプターによる世界一周飛行を成し遂げたいという夢である。
ジェニファー・マレイは自分の夢をスミス教官に語った。スミスもそれは面白いと賛同し、2人であれこれと飛行計画を練りはじめた。それを聞いた家族は驚き、何とかして計画を思いとどまらせようとした。「でも、私は冒険と挑戦が好きだったのです」とジェニファーはいう。 この計画は1997年、スミス教官同乗のもとに実行され、97日間の世界一周に成功した。しかしジェニファー・マレイは満足できなかった。ヘリコプターで初めて世界一周をした女性という栄誉は得たが、教官の手助けがあった。これでは完全な栄誉とはいえないと感じたのである。 そこで今度は誰の助けも借りず、オートパイロットの助けもない状態で、単独で世界を回ろうという考えに至った。
その頃、ジェニファー・マレイはパイロット仲間の集まりでコリン・ボディルという青年を知った。彼はマイクロライト機で世界一周をしたいという希望をもっていた。いろいろ話をしているうちに、双方編隊で一緒に飛ぼうという話がまとまった。 それから1年半、ジェニファー・マレイは飛行計画を練り、途中経由国の飛行許可を取り、スポンサー探しに奔走した。経由地では燃料補給のための手配もしなければならないし、泊まる宿も必要だ。 またスポンサーのためには、行く先々でパブリシティもしなければならない。この世界一周飛行には「オペレーション・スマイル」という名前がつけられ、身体に障害を持つ子どもたちのためのチャリティ飛行となったのである。
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ジェニファー・マレイとコリン・ボディルがロンドン郊外のブルックランド飛行場を、ヘリコプターとマイクロライトという別々の航空機に乗って飛び立ったのは2000年5月31日のことであった。出発の時期は当然のこと、ロシア北部、アラスカ、グリーンランドなどの極北地帯を飛ぶことから、気象条件を勘案して決められた。 2人の航空機にはセスナ・キャラバン単発ターボプロップ機と、もう1機別のR44が随伴することになった。テレビとインターネットの会社「ネットワーク・オブ・ザ・ワールド」(NOW)の放送に使う撮影をするためである。これによって両機の飛行は刻々にテレビやインターネットを通じて世界中に放送され、誰もがそれを見ることができると同時に、世界中から激励のメールが届けられる仕組みができ上がった。 初日の飛行は順調であった。けれども2日目には早くもトラブルが起こった。スターターモーターが動かなくなったのである。その数日後にはバックファイヤーの爆裂音がして、エンジン出力が失われヨルダンの砂漠に不時着した。 このときジェニファー・マレイはすっかり意気消沈して、この計画には「やっぱり無理がある。やめた方がいいのではないか」と考えた。もっとも、そう思ったのはこのときだけで、最初の2度のトラブルを克服したあとは、もう後悔することはなかった。
2人はVFRパイロットで、計器飛行の資格はなかった。にもかかわらず、途中クェートでは砂嵐に巻き込まれ、インドではモンスーンの強風に遭遇した。そのため、ときには飛行経路を変更したり、2機が別々に飛んだりしなければならなかった。 政治的な外交問題にぶつかったこともあった。パキスタンとインドの国境地帯を飛んだときは、パキスタンから戦闘機のスクランブルがあり、4時間以内に空域を出ないと撃墜すると宣告された。 ロシアからは突然、領空の飛行許可を取り消された。そのため改めて英国政府とロシア政府との間で外交交渉がはじまり、モスクワと東京の英国大使館が懸命の努力を重ね、最後はイギリス外務省や国防大臣までが応援してくれた。彼らはこのとき、たまたまG8サミットのために東京に来ていたのである。が、解決までには結局、17日間も待たねばならなかった。 日本を飛び立ったヘリコプターとマイクロライトはロシア北東部の荒涼たる寒冷の地を越え、ベーリング海からアラスカへ渡った。幸い天候が良くて、飛行は順調であった。 アメリカに入ったジェニファー・マレイは、日記にこう書いた。「もはや官僚主義はない。飛行経路も強制されない。空は自由だ。半分アメリカ人の私は故郷に戻ったような気がする」と。
しかし、自由な空でも機械は故障する。アラスカからカナダの西海岸を経てロサンゼルスへ近づいたとき、エンジンが故障して出力を失い、オートローテイションに入らざるを得なくなった。目的の飛行場まで10マイルの地点で不時着したのである。 天候も問題だった。アメリカ大陸横断の途中では激しい雷雨に見舞われた。そして東海岸を北上し、カナダ東端からグリーンランドへ向かう。このときの洋上飛行は8時間に及んだ。増加燃料タンクを後席に置き、行けども行けども限りのない海の上を心細い思いでのろのろと飛行した。ようやく渡りきった先はグリーンランド南海岸のナルサルスアクであった。 翌日、一行は南端を回って東海岸のクルスクに到着。氷山の上で遊んだり、北極熊を見たりした。天候は彼らの味方をしていた。そこから1週間、広い高気圧におおわれた地域を飛んで、イギリスへ帰り着いたのである。
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ジェニファー・マレイとコリン・ボディルが出発点に戻ったのは99日目であった。飛行距離はちょうど41,000km。経由国は29か国になる。 沢山の出迎えを受けたジェニファー・マレイは「この世界一周飛行の目的のひとつは、世界中の多くの人びとにヘリコプターについて、もっとよく知ってもらうことでした。ヘリコプターは人が思っているほど危険なひ弱いものではないのです」と語った。 その理解をさらに深めてもらうために、彼女ははこれから旅の模様を本に書くという。また使用したR44小型ヘリコプターは、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に寄贈するつもりである。 もうひとつの目的は「オペレーション・スマイル」である。これは1982年アメリカではじまったボランティア活動で、障害を持つ世界中の子どもたち、特に発展途上国の貧しい子どもたちの治療費や生活費を供給しているが、ジェニファーはかねてからこの活動に参加していた。今回の飛行の成功によって集まった70万ポンド(約1億2,000万円)の金も、オペレーション・スマイルに寄付するつもりという。 最後に、その年になって何故飛ぶのか聞かれたジェニファー・マレイは、記録のために飛ぶわけではないと答える。「私は挑戦のために飛ぶのであり、また飛ぶことが好きだから飛ぶのです」 (西川渉、2001.9.12)
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