講 演 録

ヘリコプターによる超要人輸送

 

星 野  亮

 

 政府専用機の導入準備と訓練

 私はかつて政府専用機の特別輸送飛行隊の初代飛行隊長という仕事をしておりました。そこからはじまって、本日はヘリコプターの円滑なる飛行のためにというお話を申し上げます。

 日本政府は昭和60年6月頃、要人輸送のための新しいヘリコプターをフランスから買うことになり、その準備をするよう指示されました。要員は8月の定期異動時、全国の陸上自衛隊から木更津に集合しました。身分は総理府に所属することになり、官房会計課の中にヘリコプター運用室ができて、私はその室長に任命されました。

 この年は丁度、日航機の御巣鷹山の大事故が起こり、本来ならば私は陸上自衛隊木更津基地のバートル・ヘリコプター隊の副隊長をしておりましたので、真っ先に飛んで行くべきところでした。しかし木更津の隊員が一所懸命に災害派遣で努力しているところを、エアコンの効いた部屋で臨時の操縦、整備、通信に関する国家試験の受験準備と指導で缶詰になっていました。幸い私は若いときに事業用操縦士の資格を取っておりましたので比較的楽だったのですが、ほかの人は必死で勉強しておりました。 この試験が終わったあと、9月に日本を発ってフランスで6週間、イギリスで3か月間スーパーピューマの勉強をすることになりました。第1陣5名のパイロットはフランスで10時間ほど基本的な飛行訓練を受け、さらに座学のオリエンテーションを終えてから、イギリスでブリストウ・ヘリコプター社という大きな事業会社に預けられ、北海油田で活躍している二十数機のスーパーピューマの中から2機の訓練機をやりくりしていただきながら、徹底した訓練を受けました。

 訓練の内容は、普通は絶対にやらないような、エンジンを二つとも停めるオートローテイションを体験しましたし、シミュレーターもアバディーン(4軸)やノルウェー(6軸)で体験し、積雪地操作や山頂操作など、民間会社ではやらないような訓練課目も入れて貰いました。また北緯60度40分にあるアンストというシェトランド島の最北端にある飛行場で真冬に着陸したり、南はドーバー海峡を超えて英国最南端のガンジー島で訓練を受け、東はノルウェーのスタベンゲル、西はストナウェイという太西洋岸の端という、まさにイギリスの東西南北、端から端までフルに使って訓練を受ける機会を得たわけです。

 北海には非常に大きな油田があって、イギリス側だけで常時15,000人くらいの従業員が石油採掘に携わっています。その人びとが2週間ごとに交替するわけですが、それを全てスーパーピューマで輸送しています。搭乗者の人数はパイロット2人と乗客19名。ほかにジャンプシートがあって、誰かが乗ったり乗らなかったりでした。私たちの訓練の結果、練度が上がった段階では、実際の従業員の交替飛行もOJTとしてやらせていただきました。そういったことで、普通ではできないような訓練を経験できたわけです。

 

東京サミットで各国元首を輸送

 昭和61年、いよいよスーパーピューマが入ってきました。1月30日に1号機を受領したのち、2月末、3月末に1機ずつ増えて、総数3機になりました。

 それから中曽根総理のアイディアで、各機体に愛称をつけることになり、全国の小中学校の生徒から募集しまして、「はと」、「ひばり」、「かもめ」という名前が選ばれました。その後4月4日に迎賓館前庭を臨時ヘリポートとして、当選者と家族の体験搭乗をおこないましたが、これが部外者を乗せた最初の任務でした。その当日は非常に天候が悪く、木更津から迎賓館へ移動するのに、うまく行けるかどうか心配しておりましたが、僅かに雨の止んだところをタイミングよく滑り込んだことが今でも懐かしく思い出されます。

 そして4月20日、中曽根総理がアメリカに行くときに、テストを兼ねて羽田まで使っていただきました。迎賓館から羽田空港まで、初めての任務らしい任務として飛行したわけです。また5月の3〜5日の東京サミットでは先進8か国の元首など、合わせて169人の方々に乗っていただきました。

 問題はこの後、自衛隊法の改正が遅れたために、私ども要員と機体を総理府の身分から陸上自衛隊に戻すことができなくなってしまいました。しかも要員数は31名から僅か9名に縮小され、9名で3機のVIPヘリコプターを運用することになり、非常に心細く、かつ苦しい思いをしました。全く日本の省庁間の協力関係はどうなっているのか、木更津基地では燃料すら補給してもらえなくなりました。もちろん燃料は沢山あるのですが、規則上、総理府の機体には1滴も給油できないということで、試運転もままならない状況で数か月を過ごしました。

 にもかかわらず、総理大臣が防災訓練で使うとか、文部大臣が使いたいとか、外国要人が国内視察に使うとか、いろんな任務が入ってきます。やむを得ず、もともとは私の上司に当るヘリコプター団長と直談判をして、私は総理府の運用室長という立場で協定をつくり、大きなハンコを押して、この任務だけは特別に応援してもらうというような変則的な時期がありました。アキノ大統領が国賓として来日されたのも、この頃でした。

 この年、昭和61年は11月に三原山が大噴火をしました。早速、国土庁長官を乗せて現地へ飛びましたが、噴煙のためにヘリコプターが真っ黒になってしまう状況でした。風上側を飛んでも物凄い煙で、帰ってきたら、いつもピカピカに磨き上げられた機体が真っ黒になっていました。しかし、いろいろな方が噴火状況を偵察に行かれますので、私どももたびたび飛行しました。そんなことをしているうちに、防衛2法がようやく成立し、特別輸送飛行隊ができたわけです。

 こうして総理府で都合1年4〜5か月間お世話になったのち、再び古巣の陸上自衛隊に戻り、同じ政府専用機を運用する任務につくこととなりました。

 

グライダーでエアマンシップを学ぶ

 私は防衛大学の当時、グライダー同好会をつくって熱心に活動しました。「エアマンシップ」を勉強できたのはそのときではないかと思いますし、空法にも早くから馴染んでいました。たとえば針路権でも、グライダーの方が大きな飛行機よりも優先するというようなことは、実に驚きでした。

 またエンジンのないグライダーがどうしてこんなに長く滞空できるのかという驚きもありました。昭和31年頃、羽田で航空ショーがありましたが、そこに複座のグライダーが展示してあって、4時間以上の日本滞空記録をつくったと書いてありました。エンジンのないものが、どうして4時間も飛べるのだろうと非常に驚きました。しかも構造は非常に簡単で、よくこんなものに命を託して飛べるものだなというのが私のパイロットになったきっかけです。

 私がグライダーから航空の世界に入ってよかったと思うのが、空気という流体の確かさというものを体で感じることができたことです。それと同時に私たちは深海魚のようなものだという思いもあります。空を征服したなどと言っても、実際は最も密度の濃い、地球の表面の濃密な空気の底を深海魚のように這いつくばっているのではないかと思います。

 防衛大学には陸、海、空がありますが、私は陸の航空要員でした。陸にはセスナとかパイパーなど小型の固定翼機があります。これは主として特科の射弾観測に使うもので、偵察幹部を後ろに乗せて敵目標に砲弾を誘導するわけです。その訓練のための競技会では、ガンとターゲットを結んだGT線の後ろに8の字を描くような操縦をして、後ろに乗っている偵察将校が見やすいようにピタッともってこなくてはいけません。弾が発射されて何秒か経つと弾着します。弾着しますと丁度姿勢を立て直してもってきます。

 しかし、この飛行を繰り返しておりますと、操縦している方はいいのですが、後ろの人が酔っぱらってしまって、全然駄目になることがよくありました。ぐるぐると何回も引きずり回されるものですから、たまったものではありません。そういうときにはどうするかといいますと、競技会ですからパイロットが自ら無線で弾を誘導するわけです。

 陸上航空というのは地上部隊があってのものです。したがって1万メートルもの上空を気にする必要はないわけです。たかだか 1,000mくらいのところを考えておけばよろしい。また、海の上も海上自衛隊に任せしておけばいいので、これも余り関係はございません。そういうわけで、私は陸上自衛隊のパイロットとして、低空域をどのように旨く飛ぶかということを考えてきました。

 

順風満帆の人生に大きな鉄槌

 あるとき、まことに残念ながら、事故を起こしてしまいました。操縦訓練のときに教官からよく言われたのですが、パイロットで命を落とすタイプに二つある。一つは操縦のものすごくうまいやつ、もうひとつは下手なやつだ。だから、ほどほどにうまいか下手なのが一番良いパイロットなんだということでしたが、私の事故は大事故で、頚椎捻挫だの3度の火傷だの趾骨の亀裂骨折だので全治5週間かかりました。

 これはどういう事故かといいますと、山形の第6飛行隊に勤務していたとき、山火事が起きたらしいから偵察に行ってこいということになり、行ったのはいいのですが私のヘリコプターが燃えて落ちてしまったということです。

 この事故で、私はいろいろな罰則を受けましたが、機長として責任を負うのは当然です。しかし、これは私の人生にとって非常に勉強になりました。それまでの順風満帆が大きな鉄槌を下されたように思いまして、それからは謙虚な人間に変わることができました。

 それまでの私は、指揮官としては、いわゆる威圧統御という方法で後輩を厳しく指導し、「鬼の星野」といわれたように、空の掟の厳しさを徹底的に後輩に教えるというやり方をしてきました。今から思えばずいぶん嫌な先輩だっただろうと思いますが、それに鉄槌が下ったわけです。

 あの事故で私は人間として眼がさめたようなところがありました。それで栄誉ある指揮官職、たとえば師団の飛行隊長などは絶対にやらせて貰えないと思っていたのですが、意外に順調に第5飛行隊の隊長をやれということで吃驚したのですが、防衛庁の人事というのはなかなか公正なんだなと不思議な気がしました。

 どうして私が国の要人をのせるスーパーピューマの隊長に選ばれたのか。私に訊かれても困るんですが、当時いろいろな方から質問されたものです。考えてみますと、操縦がほどほどに下手であったことと、大事故に遭遇してもうまく生き延びた悪運の強さではないかと思います。

 それと、私はパイロットの本質はエンジニアだろうと思っています。私は操縦教官もやりましたが、整備員を教える教官もやりました。試験飛行の科目を上空で教育するわけですが、パイロットに操縦を教えるのと違って、整備員に飛行教育をするということで、私自身非常に勉強になりました。やはり安全なパイロットになるには、航空機の構造や機能に強くなくてはいけないというのが私の絶対の信念です。

 もちろん整備員ほどの知識はありませんが、飛行前点検をするときでも、整備点検と同じくらいの知識をもっていないと、本当に安全なパイロットにはなれないと思います。飛行前点検は義務ですから誰でも必ずやりますが、ポスト・フライト・チェックを完全に何時間もかけてやった人でないと、本当にプレ・フライト・チェックをやっても分らないと思うのです。

 簡単なことをいえば、ターンバックルの巻線が反対に巻いてあっても、そのまま飛んでしまうといったことになります。恥ずかしい話ですが、その昔、操縦索が逆になっていたという例があり、離陸した途端に右にスティックを倒したら左に機体が傾いたので、修正しようとしてまた右にやるとますます左に傾いてひっくり返ってしまった。というわけで、私はパイロットをエンジニアとして扱いました。自衛隊ですから「戦士」という言葉が好きなのですが、その士(さむらい)としての側面とエンジニアとしての側面とをバランス良く持っている人でないと、操縦桿を持ってはいけないのではないかと思っております。そして、整備員と共通の言語で話ができることが大切だろうと思います。

 

ヘリコプターの特性を活かした管制を

 さて、今日は円滑なる飛行というテーマですが、成田〜羽田間のヘリコプター旅客輸送がはじまったとき、私はいよいよヘリコプターもこういう時代に入ったか、よかったなと思いました。ところが、いつの間にかなくなってしまい、まことに残念です。

 運航中止の原因は沢山あると思いますが、成田空港から都内へ持って来るのはいいのですが、相手を羽田空港にしたのはどういうことなのか。羽田ではなくて東京ヘリポートか、どこか臨海地区か、そういうことを考えなかったのかなという疑問があります。

 管制技術も、もっとうまくできなかったのでしょうか。私も政府専用機を飛ばしていたとき、多摩川の方のエンドに降ろされたことがあります。しかし、もっと便利な場所に降りて、もっと短い経路で羽田空港への出入りができなかったのでしょうか。

 ロサンゼルス国際空港では、4本の平行滑走路にはさまれた中央にヘリポートがありますから、そこで発着するには滑走路上をクロスしなければならない。横のセパレーションと同時にバーティカル・セパレーションをきちんと取って、空港への離着陸を容認しているわけです。これぞヘリコプターの特性を充分に活かしたやり方ではないかと思います。

 この方法がそのまま羽田空港に適用できるかどうかは分かりませんが、私は今のように先ず大型旅客機の定期便を優先し、そのおまけで余ったところを飛ばせるというような考え方では、コミューター航空は絶対に成り立たないと思います。

 航空管制官も全神経を定期便に注いでいて、ヘリコプターに対しては駐機するときでも一番端っこの変なところを当てるわけです。これが政府専用機でVIPが乗っているときは別ですが、それ以外は遠くに降ろされます。

 私はイギリスでも、ヘリコプターで方々を飛びましたが、管制は比較的スムーズです。空港でも一番良いところに堂々と降ろしてくれます。

 日本はヘリコプターに適した地形といわれますが、航空法は定期便が主体になっていて、ヘリコプターについてはほとんど無視されています。そのことが今日のヘリコプターの発達に合わない、ヘリコプターの発展を阻害しているのではないかと考えます。

 自衛隊のヘリコプターは特殊な任務を持っておりますので、航空法規の適用除外という場合が沢山ありますが、民間機はそのまま適用されるので、ヘリコプターが便利な乗り物であるにもかかわらず、不便な乗り物にさせられているという感じがいたします。

 

一度体験すれば好きになる

 私は、欧州で2番目に発着数が多いといわれるスコットランドのアバディーン空港で毎日発着していたのですが、ヘリコプターもトラフィックの一つとしてきちんとカウントしてくれます。一人前に扱ってくれるわけで、日本の空港でも同じようにできたらなといつも思っておりました。

 ロンドン上空のヘリコプター・ルートも見事です。テムズ川の上やハイウェイをうまくつないで、高度500フィートくらいを飛べるように工夫してあります。日本でも、私どもがVIPフライトをするときには、自分でヘリコプター・ルートを設定します。墨田川や外堀などを利用して不時着場を想定し、僅かな適地を結んで設定します。いざというときには墨田川に不時着することを考えているわけです。

 大手エアラインが行政上の育成策によって今日の地歩を築いたように、ヘリコプターも行政が力を加えないとなかなか伸びていかないと思います。騒音や速度の問題がありますし、乗客数も少ない。管制官にとって輸送効率的にいえば一つのトラフィックとしてとらえるには面白くないかもしれません。けれどもヘリコプターこそわが国に適した乗り物であると考えるならば、もう少し行政のバックアップが欲しいと思います。

 宮崎の延岡ヘリポートは実に立派な臨海ヘリポートです。宮崎空港から海岸線に沿って飛んで来て、そのまま進入すれば、多少視程が悪くても入れるだろうと思いますが、どうしてあのようなところで事故が起こったのか残念でなりません。あの辺も途中に無線航法システムがあればと思います。

 本来ヘリコプターは空を高く飛ぶものではなくて、地面に近い低空を這うものであるというのが私の持論です。そういう素晴らしい乗り物が厄介物のように扱かわれるのはどうしてでしょうか。その理由のひとつは、ヘリコプターで飛んだ経験者が少ない。特にお役人はほとんどヘリコプターに乗っていない。大きい飛行機は嫌でも乗りますが、ヘリコプターも一度乗ってみると、急に身近な乗り物として好きになると思います。

 自衛隊でもよく基地周辺の人を対象に体験搭乗をおこないます。そうすると、それまでうるさいと文句をいっていた人がいっぺんに好きになってしまう。運輸省のお役人さんですら、ヘリコプターに乗ったことがないという人が多いのは、まことに寂しい思いがします。なんとか、ヘリコプターにも馴染んで貰わなくてはいけないと考えております。

 ヘリコプターは今日、登録機数が1,000機を超えております。日本の空を固定翼機と2分する数です。狭い空域でどちらが優先ということもなく、ヘリコプターには最短の飛行経路も選定していただけるはずですし、そうすれば時間も短縮され、料金も下がります。

 結論的にいうと、空を飛んでいるものは皆仲間であり、官も民もない。あるのはただ厳しい掟だけだと思います。先人はいいました。「空の道は身を挺して学ぶものにのみ開かれる」と。そしてヘリコプターを知らない人には是非一度体験してもらい、我々の仲間になって貰いたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

(1994年7月14日、第75回コミューター・ビジネス研究会での講演要旨/『コミューター・ビジネス研究』誌第34号)

 

 

『コミューター・ビジネス研究』誌編集部注
 星野亮氏は防衛大学卒業後、長く陸上自衛隊の操縦職にあって、さまざまなヘリコプターで長時間の飛行経験を持つ。講演の中では触れられていないけれども、政府専用機の特別輸送飛行隊長として昭和天皇をヘリコプターに3度お乗せした。昭和62年6月の大島行幸と、昭和63年8月の那須〜東京間往復飛行である。その詳細は、月刊誌『朝雲』(1989年3月号)に「天翔ける御召機」という表題で星野氏ご自身の寄稿が掲載されている。ここに著者の了承を得て、その抜粋を掲載しておきたい。

 

天翔ける御召機

 

大島飛行の思い出

 昭和62年6月22日、この日はわれわれ特別輸送飛行隊員にとって、終生忘れることのできない記念すべき日となった。伊豆大島三原山の大噴火で被害を受けた島民をねぎらわれるため、昭和天皇が史上初めてヘリコプターで行幸遊ばされたからである。

 いつの日か陛下の御召機となる栄誉が与えられることを、ひそかに期待していた私に、現実の任務としてそのことが予告された。名状しがたい緊張感が全身を駆け抜けるのを覚えた。

 私は今こそ日頃の平常心をもって、この大任務に臨むことが最も肝要と強く心にいい聞かせた。

 その日から早速、関係者による調整、機体の総点検、最良飛行要領の検討など各種準備が進められた。

 当日陛下御搭乗の栄誉を担う御召機には「はと」を、予備機には「ひばり」を予定した。「はと」の機長は私、副操縦士は佐藤雄志一尉、キャビンには宮内庁長官、侍従長など宮内庁関係者7名、御案内役の鈴木東京都知事、それに運航責任者の第1ヘリコプター団長磯江陸将補が搭乗することになった。

 気がかりなことの一つは、満86歳2か月の陛下の御高齢であったが、陛下はお若い頃から今日まで乗物に大変お強く、特に船酔いの御経験は全くなく、側近の中に気分の悪くなる人が出るような外洋でも泰然自若としておられるとのエピソードが披露され、関係者一同大いに驚きもし、安堵もした。

 しかしながら、初めてのヘリコプター御搭乗でもあり、慎重な上にも慎重な操縦が望まれたことは当然であった。

 このため一つの基準として、旋回角度15度、昇降率1分間300フィート、偵察飛行速度70〜120ノットの範囲で操縦することとし、ボールを滑らせない、いわゆる釣り合い旋回を厳守することとした。

 いよいよ任務の当日を迎えた。心配された天候も、北東の風14ノット、視程10キロ以上、シーリングなしの状態で三原山頂付近に予想される若干の乱気流に注意すれば全く問題のない、梅雨時にはめずらしい「御帝(みかど)晴れ」となった。

 すべてを完了した御召機は、木更津飛行場から勇躍予備機と共に一路相模湾を横断して、伊豆半島下田港の外ケ岡へリポートへと向かった。

 現地には前日来、われわれを支援するため泊り込んでいた隊員が待ち受けていた。9時ジャスト着陸、直ちに関係者と最後の現地調整を終了した後、多くの報道陣に取り囲まれながら、御料車の到着をお待ち申し上げた。

 操縦席で緊張して待ち受ける中、この余りの任務の重さに、強力なパワーを有するさすがの「スーパー・ピューマ」も、果たして無事離陸することができるのだろうか。とりとめもない不安な思いが私の脳裏をかすめたが、ほどなく車列のお成りとなり、9時34分御搭乗が開始された。

 続いてエンジン始動。陪乗の団長から「陛下の御搭乗完了、発進よし」の指示を得て、上昇・降下をつかさどるピッチ・レバーを静かに引き上げ、離陸操作に移った。このときの離陸の一瞬は「WING」紙における西川渉氏の一文によれば、テレビで見ていたあるベテラン・パイロットの言として、機首がわずかに左に振れ、機長の緊張した操縦ぶりが読めたと記されている。

 9時38分、定刻通り離陸したヘリコプターは、まず皇后様がお見送りされている須崎御用邸へと向かった。御用邸屋上には、皇后様はじめ多数の方々が手を振っておられる御様子が拝見できた。

 御召機は洋上に出、遂次高度をとりつつ、大島に向け直線飛行に移った。左右両側及び後方には、それぞれ警察庁のヘリコプターが随伴している。空域には、すでに一般機の飛行を統制するため、運輸省管制機関からノータム発出の処置がとられ、洋上には海上保安庁の高速救難艇が配置されている中、御召機は予備機と共に順調なフライトを続けた。

 水平飛行に移行して間もなく、客室と操縦室との仕切扉があけられた。陛下による操縦席の御視察である。あらかじめ予定されていたことであり、特に御下問もなかったが、眼前の風防越しに見える大島を、陛下はいかにご覧遊ばしておられるのであろうか。

 ほどなく洋上水平飛行を終わり、元町上空から都知事の御進講に合わせる御視察飛行に移った。事前に入念に調査し、1分毎にプロットした飛行経路であったが、当日の北東の風を考慮し、地形性の乱流に入らぬよう細心の注意を払いつつ、御視察地点である溶岩流先端地区から割れ目噴火口、山頂火口、波浮港ついで筆島の変色海面を飛行し、10時8分多数の関係者や報道陣の待ち受ける中、大島空港に着陸した。

 かくして洋上13分、御視察飛行17分、合わせて30分の陛下御搭乗の歴史的フライトは終わった。

 飛行終了後、陛下御自身から陪乗の団長に対し、飛行に関する優渥(ゆうあく)なるお言葉を賜った旨伺った。

 後日談であるが、官民多くの航空関係者から、ヘリコプターという乗り物が、陛下の御搭乗により「安全宣言」を受けたに等しいという喜びの声が、数多く私のもとに届けられた。

 

那須〜東京往復飛行

 翌年夏、こんどは那須の御静養先から、8月15日の戦没者追悼行事に御出席のため、ヘリコプターを御使用になるとの報に接した。私達は再び大きな感動と興奮を覚えた。おそれながら「スーパー・ピューマ」の迅速性、快適性が、ヘリコプターを選ばれた一つの目安になったものと推察申し上げながら、この御信頼にお応えすべく前回にも増して万全の態勢で任務に臨む決意を固めた。

 昭和63年の夏は十数年来の異常気象で、梅雨がそのまま継続したような降りみ降らずみの毎日であった。その上夏季特有の驟雨に、時に雷雨が加わり、航空活動上最も気骨の折れる難しい気象状態にあったといってよい。

 このため今回の那須〜東京往復飛行の日時は、陛下が東京へお帰りになる還幸(かんこう)時は12日午前から14日午後まで、行幸時は17日午前から19日午後まで、それぞれ3日間のうちの天候が飛行可能なときと余裕を持たせたスケジュールが内定された。また飛行経路は那珂川河畔運動公園と迎賓館の間をおおむね新幹線沿いに往復するコース、飛行時間は、随伴機の速度を考慮し50分、高度は2,000フィートと定められた。陪乗者は還行幸時とも、宮内庁関係者及び団長の菱田陸将補であったが、後日マスコミに連日登場した高木侍医長も含まれている。

 還幸時の飛行は、第1日目と予定された8月12日が終日の悪天候で、翌日午前に順延となった。8月13日早朝から満を持して待機していたわれわれは、朝方の雨も上がり、ようやく飛行可能となった北関東地域を予備機と共に那須に向け発進、雨上がりの那珂川運動公園グランドに降着した。まもなく御料車が到着、大島以来1年2か月振りの陛下による御搭乗となった。

 続いて緩やかに離陸したヘリコプターは、遂次高度をとりつつ、矢板付近から宇都宮市上空を経て新幹線沿いに南下、通過地点を通報しながら順調なフライトを続けた。大宮付近からは遂次降下態勢に入り、雲間から時折晴れ間ののぞく東京上空にさしかかった。

 「着陸前点検」完了の再確認をしつつ、陛下がしばしばお越しになった両国国技館上空を経て、雨に洗われて一きわ緑の美しい皇居を左手に見ながら、迎賓館前庭に降下を続けたが、おそれながら陛下には、機上からご覧になる壮大な現在の東京の姿に多くの感慨を覚えられたものと拝察申し上げた次第である。

 戦没者追悼行事も無事に終えられ、再び那須へ行幸遊ばされるときの経路間の気象も、やはり数日にわたり全般に雨模様であった。当初予定されていた17日午前のフライトは悪天のため遂次順延され、18日午後に至った。局地的には未だ驟雨があるものの、昼前の東京地区の雷雨がおさまった直後、団長により「実行可能」の決心がなされ、直ちに出発となった。途中筑波山もはっきりと遠望されるようになり、あとで陛下から「案外視界が良かったね」との御感想があったと伺っている。

 任務終了後、陛下から賜ったねぎらいのお言葉に対し、団長が「陛下のまたの御召しをお待ちしております」と申し上げたところ、深くうなずかれたのが強く印象に残ったとのこと。これが昭和天皇の私たちに対する最後のお元気なお姿となった。

 なお、わが飛行隊にとって特筆すべきは、還行幸時「ひばり」と「かもめ」がそれぞれ御召機となったため、大島行幸の「はと」と合わせ、全機が不朽の栄誉を受けたことである。

(『天翔ける御召機――昭和天皇をお乗せして』第1ヘリコプター団特別輸送飛行隊長 1等陸佐 星野亮、月刊『朝雲』より抜粋)

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