ボブ・シックスとコンチネンタル航空 

 ―― その5 ――

 

ついに東京乗入れ

 ロバート・シックスは今(1978年本稿執筆時)も健在である。コンチネンタル舵空の会長兼筆頭重役として、第一線の指揮を取り続けている。

 その指揮のもと、1977年の同航空は史上最高の利益をあげた。利益額は2,560万ドル(約65億円)。前年の2.8倍に達し、収入も6億5,700万ドル(約1,650億円)と前年比19%増の伸びになった。乗客数は766万人――18%の増加である。

 そして、この年コンチネンタル航空は初めての国際線、サイパン〜東京線を開設、10月1日から727による運航を開始した。実質的にはすでに10年前、1966年にエア・マイクロネシアを設立、68年以来ハワイから西へ飛んで西太平洋に点在するアメリカ信託統治領の島々を結ぶ運航を続けてきたが、これらは国際線とはみなされない。それが昨秋、東京へ乗り入れるようになって、国際エアラインをめざしてきたシックスの念願はようやく果されたかに見える。

 これは、しかしコンチネンタル航空にとって、次の飛躍にそなえる第一歩にすぎない。すでに昨77年7月には、カーター米大統領の承認によって、ロスアンゼルスからホノルル経由サモア諸島、フィジー諸島およびニュージランドヘの長距離国際線が認められている。この運航については目下、関係諸国との政府問交渉が行なわれているが、実現のあかつきにはDC-10が飛ぶことになろう。

 またアメリカ北西部のシアトルおよびポートランドから日本への乗入れも計画されている。この路線は3年前に申請され、いったんは需要不足という理由で却下されたが、今の日米航空交渉の成りゆきから実現の可能性も大きい。そしてアメリカ南部のヒューストンとニューオルリンズからはメキシコ各地のほか、キューバ、ジャマイカ、プエルトリコおよびベネズエラヘの中南米線も申請中だ。

 ロバート・シックスとコンチネンタル航空は、今なおその歩みを停めようとしない……。(了)

(『航空ジャーナル――大空への挑戦』、昭和53年6月刊)

 以上は1978年、今から23年前に書いたものである。したがってドルと円の換算率も1ドル250円であった。第2次石油危機(1979年)の起こる前の年で、まだまだドルは強かった。そんな昔に書いたものをここに持ち出したのは、今ベンチャービジネスが関心を引いているからにほかならない。

 コンチネンタル航空が発足した当時、1930年代なかばの航空事業は文字通りのベンチャービジネスだった。それが如何にして大企業に育って行ったか――そのもようがかいま見えるからである。どんな事業でもそうだが、小さな企業が生まれ、育つまでには、誰か1人夢の実現のために人生のすべてを賭け、あらゆる情熱を傾けるような人物がいなくてはならない。

 そのやり方がワンマンといわれようと横暴といわれようと、なりふり構わず突っ込んでゆき、夢中になって走りつづける。そんな人を私も幸い身近に知っているが、誰もがそうなれるわけではない。しかしコンチネンタル航空のボブ・シックスはその1人だったし、そのことで成功した人物だった。そのあたりを知って貰いたかったのである。

 なお、これを書いた1978年は、アメリカで航空事業に関する規制緩和法が成立した年でもある。したがって、しばらくするとアメリカでは次々と新しい航空会社が誕生し、新しい路線が開設され、格安運賃が登場するようになった。

 そんな中で、コンチネンタル航空は事業の自由度が増す一方、新しい勢力にも攻めこまれ、必ずしも順調な成長と発展がつづいたわけではない。シックスが走るのをやめた頃の1982年、企業はテキサスエアに買い取られ、その傘下にあったテキサス航空と合併させられた。そして80年代から90年代初めにかけて何度か、破産法のチャプター11にもとづく会社更正の申請をしなければならない状態に追いこまれた。その間、ピープル・エクスプレスやニューヨーク・エアを買収したりもしている。

 今年2001年春の保有機数は737が220機、757が41機、767が9機、777が16機、MD-81/82/83が62機、DC-10-30が17機の総計365機である。ほかに737を39機、757を15機、767を25機、777を2機発注している。

 これらの航空機を使いつつ、コンチネンタル航空は現在ニューアーク、ヒューストン、クリーブランドの3空港をハブとして、国内139か所、国外85か所の空港へ定期便を飛ばしている。

(西川渉、2001.6.5) 

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