ヘリコプター、飛行機のDMBパイロットスクール


操縦士たちのヘリコプター

青 春 の ベ ル 47

 

宮田 豊昭

 

 ヘリコプター世界はベル47によって作られた。

 ヘリコプターが産業として興き、事業として成立できたのと、ベル47を切り放して語ることはできない。ヘリコプターといえばそれはベル47であり、軽快で愛嬌のある、親しみやすいイメージを決定的に作った機種なのだ。

 ベル47がヘリコプターとして成功したのには、たしかな理由がある。複雑なメカニズムをたくみに簡略化し、それでいて必要な機能をちゃんと果たす構造になっていたからだ。どんなにヘリコプターが発達し、複雑高級な構造になっても、ベル47の基本がわかれば理解できないものはない。

 創業の時代のパイロットたちは、ベル47によってパイロットになり、青春を共にして育った。喜びも悲しみも苦楽も、小さなコクピットの中で努力があり、経験され記憶されたのだ。

 

47の因縁

 47という数字は、飛行機では特別の感懐がある。少し勿体をつければ、意味がある、といえるのかも知れない。不思議と47は傑作機で、歴史に名をとどめる機種が多いのだ。

 ある人に言わせると、50も飛行機を造るとコツを呑み込めるからいいものが造れる、だから47は傑作が多いのだそうな。一応もっともらしい説ではある。

 筆頭はダグラスC-47ダコタである。いわわずと知れたDC-3であり、もっとも多く作られた輸送機で、名機中の名機だ。いまでもフアンは圧倒的に多く、わざわざDC-3のための航空会社だってある。

 数が多いとか、寿命が永いとかいうのはあまり意味がない。何故たくさん造られたのかが問題だ。

 1930年代半ばは航空躍進の時代だった。何が躍進を可能にしたかといえば、技術に革命が起きたからだ。まず低翼単葉のレイアウトが確立し、薄板構造理論が手に入った結果、全金属製セミモノコックの翼と胴体が製造できるようになった。軽くて丈夫で抵抗が少ない。

 次がコンスタントスピード・ペラだ。エンジンはいつも最良の回転数で回り、推力はプロペラのピッチを換えてコントロールする。一気に燃費が良くなった。

 引込み脚も大きく発展に寄与した。不細工に気流を邪魔していた脚が、ナセルにすんなりと収まって、スピードは上がるし距離も伸びる。

 そしてフラップが装備された。着速を押さえるためには大きな翼が要る。ところが大きな翼は巡航の邪魔だ。この矛盾をフラップが見事に解決してくれて、高い巡航速度とゆっくりした着陸速度を可能にした。

 技術革新は直接運航費を半減させる劇的なインパクトになって、一挙に航空輸送を現実的な手段に変えた。その代表がDC-3であり、折から起こった戦争に、大量に使われる結果となったのだ。

 

戦闘機も47

 次なる47はリパブリックP-47だ。第二次世界大戦でいちばんたくさん生産された戦闘機であり、2000馬力級エンジンを搭載し、ターボスーパーチャジャーを装備したヘビー級のパンチャーだ。馬力も重量も零戦の2倍ある。キャリバー50を8挺積み、鋼鉄の嵐を巻き起こして突進した。

 ターボスーパーチャージャーを装備していたからB-17の上空を援護したのはもちろんだが、翼の下には1トンの搭載力があり、爆弾やロケット弾の攻撃力と、機銃のパンチ力も買われて、本格的な戦闘爆撃機としても活躍した。日本の重爆撃機が7人も乗って、1トンしか積めなかったことを考えると化け物みたいな戦闘機だ。

 以来戦闘爆撃機という機種が成立し、急降下爆撃とか攻撃機という機種を抹殺してしまった。影響は連綿として今日に至っている。

 ボーイングB-47も歴史の転換点として計り知れない意味がある。大きなアスペクトレシオを持った可撓式の後退翼、吊り下げ式のエンジン・ポッド、戦略爆撃機を完成させた機種というよりは、以後の大型ジェット機の基本スタイルを決定した。

 生産数が2000機を越えたのは、朝鮮戦争の勃発に刺激され、冷戦がいよいよ厳しくなったためだろうが、いかにが傑出したいたかの証左でもある。

 B-47を考える場合、技術的な視点よりも政治に及ぼした意味の方が大きい。アメリカを発進し、高々度を高速で巡航して、地球上どこでも爆撃できる能力は、戦争を抑止する大きな力になった。

 

ボーイング47

 もうひとつのボーイング47がある。CH-47ヘリコプターがそうだ。アメリカ陸軍の空中機動構想を完成させた機種で、30年たっても後継機種は現れていない。完全武装の歩兵1個小隊40名を、時速250kmで展開させることができる。砲兵なら155mmのハウザーに32発の砲弾、11名の砲員を運び、工兵なら大型ブルトーザーが搭載可能だ。陸戦の様相をまったく変えてしまったのである。

 古典的な歩兵の行軍速度は時速4kmだった。第2次大戦以後兵員輸送車が出来て、時速は50kmになったが、CH-47はそれを一挙に5倍に跳ね上げたのだ。しかも地形の拘束を無くしたのである。河も山も海も無い。湾岸戦争は砂漠の闘いであったが、CH-47にとっては何の障害にもならなかった。挨拶も無しに、イラクの強固な防衛線を素通りしている。

 ボーイングといえば強弁になるかもしれないが747旅客機も挙げたい。700シリーズには傑作機が多いが、この47は空の旅行を大衆化させ、本格的な高速交通体系を出現させたのである。なにしろ時速900kmを大衆のものにしてしまっただから凄い。

 いまさらジャンボの評価でもないのだが、空を安価で正確で安全なものにし、庶民の足にした功労は絶大であった。いま世界中どのこ空港に行っても747を見ない空港は無いだろう。

 

赤穂浪士

 47といえば、ぜひ触れなければならないのが赤穂の47士だ。毎年暮れになれば、日本人を痺れさせ新しい年が来るな、節目だなと思わせる。忠臣 は航空に関係ないのだけれど、47と聞けば日本人が真っ先に思い出す数字だからからしかたがない。ベル47からの連想が来るところまで来た。

 もうひとつついでに。僕個人の空との係わりで、どうしても思い出すのが飛行第47戦隊なのだ。

 昭和20年2月19日午後3時、僕の家は紅蓮の炎を挙げて燃えていた。隣の綾ちゃんの家も燃えていたし、親友の信ちゃんの家も燃えていた。学校も駄菓子屋も区役所も燃えていた。

 見上げる青い空に、コントレールを曳くB-29の群が光り、47戦隊の若者たちが、2式単戦鍾馗でけなげな邀撃をし、僕はパイロットになるぞと決心した。そして10年、僕は決心どおり空を飛んでいた。もちろんもうB-29はいなかったけれど。

 心的モーメントの中心に47戦隊があって、部屋にはプラモの鍾馗が飾ってある。

 残念ながらドイツやイギリスや日本には、命名の方法が違うから47という名機はない。しかしアメリカのように、機種毎の正式採用通し番号で命名したら、メッサーシュミット262は47なんて機番になっていたかもしれない。

 いずれにしても、C-47の航空輸送、P-47の戦闘爆撃機、B-47の戦略爆撃、CH-47の空中機動、B747の航空大衆化と同じように、ベル47もヘリコプターを確立した。赤穂浪士は別にして、ともかく航空に47は、深い因縁がある。

 

ベル47の系譜

 いまでこそベル社はヘリコプター専門会社みたいに思われているが、1935年に設立された後発会社だったから、意欲的な開発に次々と挑戦した。

 P-39はエンジンを胴体中央に置くミッドシップのユニークな戦闘機だったし、改良してP-63を造った。優れた戦闘機とは言えなかったけれど、それでもソ連戦線ではかなり活躍している。

 アメリカ初のジェット戦闘機P-59もベルの製品だ。もっとも記念すべき機体は、初めて超音速飛行を成し遂げたX-1だろう。チャールス・イーガーばかりをひどく有名にしたが、ものおじしない会社を髣髴とさせる飛行機だ。こうしてみると、むしろ野心に燃えた戦闘機メーカーだったのがわかる。

 たぶんヘリコプターへの挑戦も、社風がさせたのだと思う。1941年研究に着手し、1943年には30型という実験機が完成している。民間で初めてヘリコプターの型式証明をとったのが1946年3月であり、X-1が初飛行した2月と重なっている。会社は沸き立つようであったろう。

 型式証明を取ったのはベル47Bである。フランクリンの6V4-178-B3を搭載し、乗員は2名であった。もちろんローターは成功の根元になったアーサーヤングのシーソー・タイプで、同じシーソー・タイプのテイル・ローターを着けている。

 センター・フレームとテイル・ブームはクロムモリブデン鋼のトラスで、ひどく古めかしい。垂直に上がれれば後はどうでも良いと軽くいなしている。まだホリゾンタル・スタビライザーも無ければ降着装置は4輪式のホイール・タイプ、シンボルになったスキッドは着けていない。

 総じて言えば、やっと立って歩ける赤ん坊と同じだ。垂直に離着陸出来ると言うだけに過ぎない。乗るパイロットは興奮しただろうが、さて何が出来るかとなれば、期待ばかりが大変だったと思う。

 最大全備重量が2200lb、自重が1450lb、パワーは178馬力、最大燃料が24galで燃費は12gal/hr。そこで、搭載量をちょっと計算してみると次のようになる。

有効搭載量

2200-1450=750(lb)

燃料

24×6=144(lb)

オイル

3×9= 27(lb)

乗員2名

340(lb)

その他搭載可能量

239(lb)

  239lbというと108kgである。気温が上がり高度が高いところならば、パイロットだけしか乗れないということがあったろうと思う。

 最大速度はローターは先端速度の関数である。直径は10.71mで、回転数は最大350rpm、最低が285rpmになっていた。これで最大速度は92mphである。148km/hだ。

 燃費から計算すると巡航で2時間、30分の予備は必要だから飛べるのは1.5時間、約150kmというところだろう。行って帰ってくるミッションなら、50km〜70kmが行動半径と考えなければならない。ひどく切ない能力だ。

 B型は開放型のコクピットをオプションにしたり盛んに模索が続けられた。しかし1948年7月にはエンジンをマイナーチェンジしてベル47B3を出し、コクピットはバブル型の密閉式に定着した。

 しかし1948年2月にはD型の量産が始まっているから、かなりめまぐるしい。エンジンはB3と同じフランクリン6V4-178-B32のままである。ホイールにブレーキを取り付けるなどして、実用性を向上させるために手を加えたのが判る。

 1949年3月、ベル47D1になって本格的に安定した軌道に乗ることになる。エンジンは6V4-200-C32にパワーアップされ、200馬力となった。全備重量は2350lbとなり運用環境は広がって、一段と実用性が増している。最大速度は僅かながら向上し、95mphになっている。

 もっとも資料によっては88mphになっているものもあるが、ヘリコプターの最高速度はあまり当てにならない。回転翼の高速域は性能のバラツキが多いのだ。それに使うこともないので、神経質になる人も希だ。

 エンジンのパワーアップに合わせて燃料容量は24galから29galに増えている。多分ベル社は切実な要求を感じていたのだろう。

 テイル・ローターの前に固定式のベントラル・フィンが取り付けられ、降着装置がスキッド式になった。以後これがベル47のシンボルになる。今でも頑強に、ヘリコプターはスキッドだと信じている人がいるほどだ。

 細かいところではバッテリーが可動式となり、装備の状況に合わせてCGの釣り合いが取り易くなった。小さな改修のようだが、日々取り扱う整備士やパイロットにとっては大きい。CGに敏感なヘリコプターを、こまめに修正が出来る。またカウリングやテイル・ブームを解放式にして、横風運用性を向上させている。

[注1] lb(ポンド)=0.4536kg。mph(マイル・パー・アワー)=1.609km/h。gal(ガロン)=3.785リッター。
[注2] 換算は割算ではなく、掛算でおこなう。たとえば239lb×0.4536kg/lb=108.4kg。

真打ち登場

 途中E型はあったがF型がなく、同じ1953年の6月にはG型が生産され始めた。最大の変化は燃料タンクとシンクロナイズド・エレベーターである。両方とも、飛行中のCG変化に対応する手段として強化されたものだ。

 E型までの燃料タンクはピロウ型で、トランスミッションの後ろに横向きに着いていた。考えただけでも不自然な装着だ。燃料の残量によってもろにCGが変化を受ける。燃料が多いときはテイルヘビーとなり、軽くなってくるとノーズヘビーとなる。安全サイドに動くのは確かだが、片時もCGは止まってなくて、しかも相当な速度で移動する。どうみても褒められた設計ではない。操縦特性は悪く、おちおち操縦はしてられない。

 G型の燃料タンクは左右2個のサドル型になった。タンクのCGは機体のCGに近似しているから、燃料の量によって極端にCGが変化することはない。しかも容量が43galと48%も向上し、航続性能が著しく改善された。

 くわえて、操縦捍に連動するホリゾンタル・スタビライザーが装着され、CG範囲が広がった。CG変化に弱い特異性が緩和されたのである。

 ローターの直径は変わらないが、最大回転数が350rpmから360rpmとなり、速度は100mphにまで向上している。ただし、巡航速度は機体が重くなった分だけ低下し、60mphになった。約100km/hだが、航空機としてはあまり胸が張れる速度ではない。

 僕はこのG型から付き合い始めたのだが、操縦系統に油圧はなく、ローターのフィードバックがもろに操縦捍に返ってくる仕掛けになっていた。もし教科書通り卵を握るように優しくしたりなぞしたら、たちまち操縦捍は暴走してしまう。セム皮の手袋は必ず穴が開いたし、掌にはマメができて、まるで肉体勤労者の手であった。

 G2型はエンジンをライカミングのVO-435-A1Aに換え、信頼性が飛躍的に向上した。エンジンは心臓だというが、こんなにも違うのかという実感だ。潤滑系統はウエット・サンプからドライ・サンプ方式に変わって、取扱性も良くなった。量産開始は1955年の1月である。

 最大の変化は操縦系統が油圧式になり、操舵力が相撲さんの手から赤子の手で済むようになったことだろう。パイロットは苦役から解放されたのである。G2でベル47は完成の域に達したと言えるだろう。出現からちょうど10年が経っている。

 エンジン出力は260hpを200hpに減格し、トランスミッション吸収馬力が200hp、高高度高温高湿度には余裕が60hpある。これが大きい。スロットル全開高度が3900ftになって、ほとんどの地形に対応できるようになった。全備重量は2450lb、空虚重量は1564lbである。

 再び搭載量を計算してみる。

有効搭載量

2450-1564=886(lb)

燃料

41×6=246(lb)

オイル

3×9= 27(lb)

乗員2名

340(lb)

その他搭載可能量

273(lb)

 燃費が15gal/hになったが、航続時間は2.7時間と40分ほど多くなった。僅か40分と嗤うことなかれ、これが実に貴重な40分なのだ。

 1962年、本流のG2はローター・ブレードを木製から金属製に換え、G2Aとなった。7年もの長い間G2に手を加えていないのをみても、この機種が、いかに完成度が高かったか分かる。

 木製ブレードは、スチールのコアを挟んで前縁がスプルース、後縁がバルサで、全体はファイバーで保護されていて、テーパーがあった。しかし金属ブレードはテーパー無しで61cm伸び、回転数も370rpmになっている。乗った感じは柔らかな乗用車のスプリングから、硬いトラックのバネに変わったようだった。

 ブレードの変化に合わせ、エンジンをシリーズのA1Eに換装して240hpにパワーアップしたが、増加分はローター効率と空虚重量に喰われて高高度性能が悪く、翌63年にはG3B1が出ている。

 G3B1のエンジンはターボ・スーパーチャージャー着きのB1Aであり、270馬力に向上するとともにデンシティ・コントローラーの働きで、自動的に馬力が維持された。おそらく今でも最も高高度性能が良いヘリコプターだろう。エンジンを更にA1AとしたG3B2が量産された。

 G3B1の翌年、定着したVO-435エンジンに換え、単純に余裕馬力を生み出す手段としてひとまわり大きい305hpのVO540-B1Bを載せ、G4が生産され始めた。

 複雑で手の掛かるターボ・スーパーチャージャーより現場には歓迎されたようである。タンク容量は更に増加して57galになっている。ただ、空虚重量が1880lbになり、あまり重くなりすぎたという批判もあったようだ。ちなみに全備重量は2950lbに増加しているから、有効搭載量は1070lbと初めて1000lbを越えることが出来た。

 1966年、エンジンをVO-435に戻して軽量化しベル47最後のG5が生まれた。しかし1967年からは後継のベル206の量産が始まっており、既に旧式機の感は否めず、G5Aを含めて74年で生産は終了した。

 

傍   流

 1955年3月、G2の量産開始に平行してH1が発表された。搭載するエンジンはフランクリンの6V4だが、テイル・ブームをセミモノコックとし、機体全体が外皮で覆われた高級乗用タイプである。翌年8月にはエンジンをVO-435に換えて、J型となった。

 J型は220hp、タンク容量が35galで、広いキャノピーの真ん中に操縦席があり、計器板は左側に寄せられている。客席は操縦席の後ろに3席のベンチ・シートが用意されていた。

 性能不足は明らかで、VO-540に換装して305hpにパワーアップしたJ2が、1960年から飛び始めている。タンク容量は49galになり航続力が伸びた。アイゼンハワー大統領専用機としても愛用され、更にJ2Aへと発展した。

Jシリーズの年産数は20機程度で、Gシリーズの本流からみれば傍流だが、ベル206につながる機種としてはむしろ本流と言うべき構造であった。

 かって昔、セミモノコックの機体が出る直前は、金属トラス構造を金属外皮で覆った機種があった。ホーカー・ハリケーンやノースアメリカン・テキサンがそうだ。中途半端な構造と思うよりも、次のステップへの準備と考えるのが素直だ。

 いずれにしてもベル47を改造していく過程で、ベル社は冒険的な戦闘機メーカーから、成功を足がかりに改修を重ねていく、しぶとい保守的な企業へと変身した。

 

 ライセンス生産

 1953年、日本でも川崎重工がベル47D1からライセンス生産を開始している。

 G型、G2型を経て、G3B1を母体にした独自のKH4を生み出した。以後G4やG5の生産はしていない。

KH4はGシリーズの目玉のようなバブル・キャノピーを一新して、J型と同じ座席配置にしたものだ。ただし計器板は左側でなくて中央にある。したがってパイロットは、正面に計器を見て操縦が出来る。

 エンジンはG3B1と同じターボスーパーチャージャー付きのVO-435、離昇出力260hp。タンクは再設計されて55gal、燃費は18gal/hで航続時間は3時間。最大速度は105mph、巡航速度が公称87mph。ベル47しか無かった時代のスーパーマシンになり、折からの農薬散布需要に乗って、ヘリコプターの黄金時代を築き上げた。

ちなみに搭載能力は次の通り。

有効搭載量

2850-1868=982(lb)

燃料

55×6=330(lb)

オイル

3×9= 27(lb)

乗員2名

340(lb)

その他搭載可能量

283(lb)

 一見してあまり変わりばえしないように思えるが、乗員が1名、燃料が1.5時間とするとそれなりの差が出てくる。当時はこの僅かな差が、とてつもなく大き感じられたのだ。

 ベル47は日本の川崎重工だけでなく、イタリアのアグスタ、イギリスのウエストランドなどでもライセンス生産され、総機数は6000機以上に及ぶ、まさに名機なのである。

 

 

操縦士たちのベル47

 ベル47は創業期のヘリコプターの中核であった。操縦装置はデュアルのオプションがあり、大概の機体はプロビジョンがあった。だからこの時期のパイロットは皆、ベル47で操縦をおぼえ、ベル47で仕事をしたのだ。それ以外の機種が無いか、無いに等しいのだからしようがない。

 僕もベル47でライセンスを取った。26歳のときだ。だからベル47の世話になったし飛行時間の多くがベル47だった。リュウさんもサイさんもシンちゃんもトモちゃんも、イケちゃんも3馬鹿大将も、皆ベル47でパイロットになり、ベル47に育まれたのだ。

 彼らは今、スーパーピューマに乗っている。けれど、どの機種がいちばん良かったかと聞けば、口を揃えてベル47G2と答える。なぜなら、G2は青春の機種であるからだ。

 

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